最近、共産党や朝日や朝鮮人などおなじみの面々が愛国心教育への反対に情熱を燃やしている。連中はなぜ反対するのか。
民主国家における愛国心とは主権者意識に他ならない。日本国民の主権を蹂躙したい勢力からすれば、日本国民に愛国心(=主権者意識)を持たれてはそりゃ困るだろう。
民主主義体制とは国民が主権者となって国や地方の政治を行う社会体制だ。あたりまえのことながら国の政治を行う者には、国への思い入れ、愛が不可欠である。
例えば、読者氏が王に全権のある王政国家に住んでいると仮定してみる。その王が「私は愛国者ではない。国のことなんか興味はない。」と政治を投げ出して国が荒れるにまかせているとする。読者氏はそんな主権者の統治を望むだろうか。「ハア?国の政治を行う立場なら、国を愛するのはあたりめーだろうが。国を愛さないのなら国の主権を握ってんじゃねーよ。」と思うだろう。
民主国家とは国民が主権者たる自覚、すなわち愛国心をもって主権を行使する国なのだ。
サヨクは例によって「国民に『愛国心を強制』するなんて北朝鮮と同じだああ。」を連呼する。とりあえず「北朝鮮と同じだあ」と叫ぶおなじみのアジテート。
支那や北朝鮮のような独裁国家の「愛国心」は、独裁者や独裁与党への愛を育む「愛国心」である。一方、民主国家の愛国心は、主権者意識のことである。
この違いを理解できていない政治的教養ゼロの阿呆が存在するという事そのものが、愛国心教育の必要性を示しているのだ。
この違いがわからない阿呆がだ頻繁に口移すアジテートが、「愛国心教育で国民は政府の言いなりになるうう。」というものだ。
全く逆だろう。逆であることを示す最もわかりやすい例が筆者だ。
筆者は全く「政府の言いなり」でない。対支ODAなど政府による様々な政策を批判し、河野洋平や加藤紘一など自民党政治家をボロクソに批判し、憲法のような政府の基幹的な部分に対してすら徹底的に批判している。批判するためのページを立ち上げるほど執拗なまでに批判している。仮に筆者を愛国者と仮定すると、愛国心=「政府の言いなり」でないことがわかるだろう。
むしろ、仮に筆者を愛国者と仮定すると、愛国心=「政府への批判、監視、提言」ということになる。
これは別に筆者に限った事ではない。
サヨク自身が「愛国者」と認め批判対象とする相手(サヨクは右翼と呼称するが)は、政府の政策に対して徹底的に批判し監視する。インターネット掲示板などを見ても、そういった愛国者による政府批判が山のように行われている。
なぜ愛国者はさかんに政府を批判するのか。簡単だ。愛国者だからである。
時代劇に出てくる若君の教育係の「じい」は、若君と藩の将来を憂うがゆえに若君に口うるさく小言を言う。それが忠義と言うものであり、愛国心というものだ。(その意味では支那に盲従するサヨクのメンタリティは「忠義」などではなく、ただの奴隷と言うべきだろう。)
ところがサヨクはそういった愛国者による政府批判が気に入らない。
愛国者による「政府への批判」を、「社会の『負け組』が政府を批判することでうっぷんを晴らそうとしている」的な位置づけにして揶揄したがるサヨクもいる。政府批判者をネット右翼などと呼称し、必死で「政府への批判」をやめさせよう、「政府への言いなり」にしようと奔走する。(自分を「勝ち組」「意識の高い人々」「(オウム真理教で言うところの)ステージの高い」と位置づけ、他者より自分を一段高く置こうと必死になるサヨクおなじみの体質。こういう事に必死になること自体が、劣等感のとりこである自白に他ならない。)
サヨクは政府批判を推奨する割に、政府の政策がサヨクの好む方向である場合、批判を徹底的に封じようとする。必死で「政府の言いなり」にしようとする。
サヨクは、
政府の国家規範への批判(憲法批判)を封じようと必死になる。
政府がやっている支那朝鮮を重視した外交への批判を封じようと必死になる。
政府がやっている弱小な軍事政策への批判を封じようと必死になる。
まさに愛国心教育反対者は国民を「政府の言いなり」にしようと必死だ。
サヨクによる「ネット右翼」騒動は、どうあれ↓この等式を明瞭に証明した。
愛国心教育に反対する勢力=愛国者による政府批判を揶揄し、やめさせようと必死な勢力=国民を「政府の言いなり」にしようとする勢力
もちろんここで言う「政府」とは、日本政府というより厳密に言えば支那朝鮮半島政府のことなのだが。
民主国家の愛国心が主権者意識のことだと理解できれば、日本国民に愛国心を持たせまいとする連中の意図は明瞭になる。戦後体制の根本問題は日本国民から様々な主権が剥奪されていることにあるが、今後も日本国民から政治権力(主権)を奪い続け、また更に奪うためだ。
「愛国心をキョーセーするなー」と叫ぶ連中(ようするにサヨクだが)は、以下の連中でもある。
・GHQによる日本国民からの主権(憲法立法権、司法権(東京裁判)、行政権、国防権)剥奪を美化賛美する勢力
・支那朝鮮による日本国民への主権侵害を補佐する勢力
・世界中で反日アジテートを繰り返し外患を誘致しよう、日本国民を外国の監視下支配下に置こうと必死な勢力
・大東亜戦争への病的な批判による、日本国民による主権行使への徹底した疑義と不信のすりこみを行う勢力
ようするに日本国民が日本の主権を持つことが嫌で嫌でしょうがない勢力である。そういう勢力が、日本国民の主権者意識を育む教育を阻もうと必死になるのは、ある意味当然と言える。
GHQは日本国民から愛国心を徹底して奪った。なぜか。植民地の住民にそんなものは必要ないからだ。植民地住民を銃器で支配する米軍兵士、つまり主権者であり統治者が祖国米国への愛国心を持っていればいい。立法権司法権行政権を持つ国家の主権者なら愛国心は不可欠だ。しかし立法権司法権行政権のない植民地の住民には愛国心などは必要ない。
家畜に愛国心が必要だろうか。そんなものは必要ない。貪欲にエサを食らう本能と、ムチを痛がり従う反射のみがあればいい。「ムチを痛がり従う反射」を日本人に育んだのが東京裁判であり現憲法である。ちょいとムチを叩くと「支那様がご懸念じゃあ!!」と飛び上がって大げさに反射する汚物がサヨクである。
サヨクによる愛国心教育反対の根拠を聞いてみると、それはそのまま「平和教育」の問題性を示すものである場合が多い。
いわく、「『強制』だからダメ。」→「平和教育」の強制も該当
いわく、「『心の問題』に干渉するな」→「平和教育」も子供の心や主義主張に干渉している
いわく、「セーフの言いなりに洗脳されるうう」→「平和教育」は子供の心に贖罪意識をすりこみ支那朝鮮の言いなりにするためのもの
いわく、「センソーになるうう」→「平和教育」は日本国民の国防意識を低下させるための戦争の下準備
結局例によって自白そのものだったわけである。サヨクの愛国心教育に向けた罵倒の数々は、「罵倒は自白」という古来からの法則をそのまま体言したものに過ぎないわけだ。
もし、上記を理由に愛国心教育に反対するのなら、まずは「平和教育」の強制をやめろ。将来あるかも知れない「強制」なんぞより、今現在存在し行われている強制のほうがはるかに問題だろう。
「日教組全教様の強制はいい強制なんだあ。愛国心教育はコッカケンリョクの強制だからダメなんだあ。」ドアホ。何で主権者国民の判断をあおがない私的官僚組織による強制が良くて、主権者国民の判断のもとに成立する主権者代表の命令がダメなんだよ。
情けない。程度が低すぎるし、何よりも官僚が主権者国民を舐めきった態度をとることが、ここまで露骨に公然とまかり通る有様は、実に腹立たしい。こういう官僚がまかり通る有様は、戦後体制が民主国家と言うには欠陥が大きすぎることを示している。