小泉首相の靖国参拝への病的な反対を繰り返すサヨク。神の怒りにパニックに陥り、いけにえをささげて必死で神の許しを乞う未開の土人集団そのままである。支那を神とあがめる未開の土人集団が、「神」にさからう小泉氏の有様にてんやわんやの大騒ぎをしている。
支那を神とあがめる未開の土人集団が支那の怒りにうろたえ、いけにえ献上を吠えたてる。
東京裁判とはいけにえの儀式である。
終戦後日本への憎しみに燃える米国支那が、日本人を殺し復讐したいがために行なったのが東京裁判である。米国支那はいけにえとして東条氏など昭和殉難者の方々を国内だけで千人近くも殺戮した。
これはまぎれも無く政治弾圧である。新政権(占領軍)が新政権の支配に屈せず戦った旧政権(昭和殉難者の方々)を、政治的理由、政策的理由、思想的理由から逮捕し事後法で裁き殺戮。最も純粋で正確な意味での政治弾圧である。この政治弾圧による犠牲者数は千人近くにおよび、共産党が「暗黒時代」と呼ぶ戦前よりはるかに多い。この圧倒的な政治弾圧を問題視しないまま、戦前のみのダンアツを過大に問題視する阿呆がサヨクに多い。
占領軍による野蛮極まりない、いけにえの儀式。それが終わり国民の選挙による議会が再び機能するようになると、議会は満場一致でいけにえとされた殉難者の方々を公務による死亡と正式に認定し名誉を回復した。
欧米列強の横暴許すまじと大東亜戦争を戦争を支持し戦ったのは他ならぬ国民自身だ。それを新たな支配者が来たら「全部グンブがワルイんです、ボク知りません。」と言い訳できるほど国民は卑怯者ではなかったということだろう。朝日などのメディアを除いて。
日本国民真に背負い、恥じていかねばならない原罪とは、米国や支那の歓心を買うために、千人近くの自国民をいけにえにさし出すなどというう、歴史上かつてない汚辱をおかしたことにある。
数多くの日本国民をいけにえとして殺戮した支那は、更に今、「いけにえを弔うな」と小泉氏にいいがかりをつけている。ここまで徹底した傲慢な舐めっぷりは歴史上存在しないのではないのか。
殺すだけではあきたらず、弔うなとまで要求する狂人だ。
松本チヅオがサリンで殺した遺族に向かって、「ガス中毒死した連中は戦犯だ。弔うんじゃねええ。」と吠えるようなものだ。日本国民の命を踏み潰して殺し、更に唾棄し「日本国首相小泉、おまえも俺が潰した日本人の死体を唾棄しろおお」と命じている。
そしてこの支那より更に狂っているのは、自国民をいけにえに差し出した歴史を何ら恥じず、それどころか支那といっしょになって、「そうだそうだ、小泉は弔うな!」を連呼する連中だ。
自国民が大量にいけにえにされて殺されたわけだが、そのこと対していささかの疑念も怒りも無い。災害を前にした未開土人のように、何人殺されようがひたすら恐れ畏敬しこうべを垂れ次々といけにえを差し出す。支那の怒りの前には日本人の命などゴミくずだと認識している土人だ。
そもそも「戦後の平和」とは、日本国民の命を次々と外国にささげるいけにえとすることで成り立ってきた腐った「平和」である。
東京裁判といういけにえの儀式に始まって、「平和」の美名の元、国民の命がいけにえとなり続けた。
北朝鮮との「友好」「平和」のいけにえにされているのが拉致被害者、およびその家族である。
ロシアとの「友好」「平和」のいけにえとなっているのが北方領土から疎開させられている人々である。
支那との「友好」「平和」のいけにえとなっているのが膨大な支那人犯罪者の犠牲者だろう。支那に侵略殺戮されてきたチベットウイグルカンボジアの民衆もまたいけにえにされている。
韓国との「友好」「平和」のいけにえとなっているのが韓国の竹島侵略で殺された漁師とその家族だ。今も日本海沿岸の漁師は韓国漁船の横暴に苦しめられ、殺されている。
米国との「友好」「平和」のいけにえは言うまでもなく沖縄で強姦される女学生などだろう。
小泉首相は「奴隷の平和は選ばない」と言ったらしいが、戦後の「平和」はまぎれもなく奴隷の平和である。国民の命を奴隷として支那や北朝鮮に献上することで成り立ってきたのが戦後の「平和」だ。
日本が独立させるまで支那の属国だった朝鮮は、支那に奴隷を献上することによって支那の臣下の国として成り立ってきた。その冊封体制まがいの奴隷献上体制が戦後日本だ。
昭和殉難者の方々など日本国民をいけにえとして殺戮した支那は、今ではいけにえを弔うなと首相にわめいている。反吐が出るような思い上がりだ。冊封根性が残っているのか。
筆者は言う。
「いけにえの儀式は間違っている。事後法で裁いて殺すいけにえの儀式なんて、文明人のやることじゃない。」
土人は吠える。
「いけにえをささげないがために支那神様の怒りをかって、日照りになって作物が枯れ果ててもいいのか!」
筆者「いけにえと日照りの因果関係なんか証明できていない。支那とか称するものに日照りを起こす力なんか無い。」
土人「(焼かれて苦しむ昭和殉難者の方々の回りで踊り狂いながら)ドンドコドンドコ、おそろしや〜おそろしや〜、支那様〜、お許しをおおおお許しをおおお。支那様を恐れぬ不埒物がおりますうう。友好が損なわれるうう。右翼じゃああ、偏狭なナショナリズムじゃああ、支那様はご懸念じゃああ。日照になるうう、水害が起きるうう、支那様の偉大な市場を失い日本は滅びはてるうう。」
筆者「日照りが怖いのなら、溜池を作り用水路を引くべきだ。いけにえなんかでは解決にならない。」
土人「いかああああん!米国様がお与え下さった憲法では、支那様北朝鮮様を信頼し、溜池も用水路を永久に放棄せよとのおおせじゃ。溜池も用水路ももっての他じゃああ!それこそ支那様がお怒りになるうう!」
(その時稲妻が鳴る)
土人「はううう!支那様が支那様がお怒りじゃああ!どんでもないことじゃあ!おゆるしをおお。」
土人「支那様は、いけにえを弔うなとおおせじゃ!首相は弔ってはならぬ、弔ってはならぬのじゃああ!」
筆者「いけにえにされた人や家族のことを考えれば、弔うのはあたりまえだ。」
土人「いいけにえにされた首相は戦争を企てた悪者じゃああ。弔う必要などないのじゃあ!悪者の家族は罪人の家族として生涯こうべを垂れて過ごせええええ。」
筆者「戦争を企てた敵国神からのおかしな神託をまに受けるな。首相は勝手に戦争を決めたわけではない。だいいち我々をいけにえにして殺すような連中と戦うのはあたりまえだ。」
土人「いいけにえにされた首相は戦争を企てた悪者じゃああ。吊るしあげて殺すのは当然のことじゃああ!いけにえをささげるのじゃあ、いけにえじゃあ!」
筆者「確かに支那や韓国では、旧体制を吊るし上げて殺す文化大革命や元大統領吊るし上げ裁判が恒例化している。そういう世の中が好きな人は、確かに吊るし上げの儀式を欲するだろう。でもそれはまともな近代民主国家ではない。民主国家では新政権の政治家が旧政権の政治家を政策的な理由から殺したり事後法で裁くことはあってはならない。あくまでリコールや選挙で国民の意思を示すのが民主国家なんだ。」
土人「おおおお、今は常任理事国になろうとしている時じゃあああ。いつもより更に支那様のご機嫌が重要なのじゃあ。支那様にささげるいけにえの儀式に疑問をもってはならぬうう。支那様の厳命のままにいけにえを唾棄し、支那様にいけにえを献上できたことを喜びとしていることを示すのじゃあああ!」
ひたすら支那を畏怖し恐れ敬い必死で好かれようとすることに終始し、そのためには自国民をいけにえに捧げても良いとまで考えるほどに退嬰化し、支那を理性的に評価したり批判したりする能力が欠落している。まさに神を絶対視し無条件に崇拝する土人である。
東京裁判への肯定は、以下の意見であるという自白に他ならない。以下の意見であってのみ、東京裁判は肯定できる。
@ 国民の司法権(主権)を不要と考える
外国が自国に駐屯し裁く行為を肯定するということは、自国の司法組織、自国民の司法権を否定するということだ。言うまでも無いが司法権は重要な主権の一つであり、国民の司法権を否定するということは国民の主権を否定するということだ。
@ 事後法で裁く司法制度を肯定する
@ 当局が政治的思想的理由で政敵を逮捕し裁き殺す社会体制を肯定する
@ 当局が当局に都合の悪い証人の出廷を拒否できる司法制度を肯定する
東京裁判では原爆の実態を報告しようとした証人は出廷が禁止されていた。
こうして並べてみると、全部サヨクが愛する支那や旧ソ連の社会体制そのものだ。サヨクが東京裁判への異常な忠義を発揮するのはむしろ当然だろう。まさにサヨクにとっての理想的な司法制度がGHQ体制下にあったのだから。
東京裁判を正しく正当な裁判だと考える立場に立つには、上記@を全て正しく正当だと考えてこそ立つことができる。なら仮に自民党が上記@の社会体制にした場合も、正しく正当だと言う結論もまたありえる。
東京裁判こうべを垂れたがる(つまり上記@を実質的に主張している)民主党共産党は、結果として↓こういう社会体制を支持していることになることを認識しておくべきだろう。
自民党が民主党共産党社民党の党首など自民党の政敵の政治家秘書関係者を丸ごと逮捕し、「平和に対する罪」とかわけのわらない罪科で裁き、自民党の問題点を批判する証人の出廷を禁じ、最後には死刑にして殺す。殺す前には拷問をして「この裁判を受諾する」という文書に証明捺印させる。(こうすれば、東京裁判崇拝派的には『裁判を受諾した』ことになり、後から文句を言うとこはできないということになる。)おまけに死後遺族が弔おうとしたら自民党が「反省をしてない」「おまえは裁判を受諾しただろうが」とイチャモンをつけて弔いをやめさせる。「自民党に逆らうこと=罪、悪」という前提の神話を全国民に強制する社会体制だ。
こんな社会は全くもって荒唐無稽だ。しかし昭和殉難者に戦犯なる認定をした東京裁判への忠義に萌えて靖国参拝に反対する民主党は、さぞかしこういう社会がお望みなんだろう。ぜひ自民党につくってもらいたまえ。「支那米国に逆らうこと(大東亜戦争)=罪、悪」とする神話がそんなに好きなら。
こういう指摘に対し、東京裁判忠義派の民主党員は「自民党がこういう社会体制を作るわけない」などと、自民党への全幅の信頼をよせた言い草をするかも知れない。しかし国政の与党は自民党だけではない。創価学会批判、池田大作批判者への狂気的な罵倒を日常的に行なう創価学会を支持母体とする公明党もまた与党だ。(その公明党は人権弾圧法案を自民党左派の力を借りて着々と進めつつある。これを傍観する民主党議員は、ほとんど白痴ではないのか。創価学会を批判した民主党議員共産党議員が「人権侵害者」の名のもとに弾圧対象とならないとわからないのか。)
東京裁判を崇拝するということ(例えば東京裁判による戦犯なる認定に忠義を発揮し参拝に反対するということ)は、こういう社会体制を支持するということに他ならないことは我々は認識しておくべきだろう。特に民主党共産党など野党の諸氏は。
@のような狂った主張をするものは、もはや法治を理解しない未開人である。筆者が靖国参拝反対派を土人扱いする理由は、@のような近代国家として基本的な前提ですら重んじることもできない未開人ぶりにもある。
参拝反対論者の中には、戦争による占領政策における殺戮裁判の判決を受諾したことを根拠に「参拝をするな」と吠える者がいる。これは病的なまでの勝利至上主義、つまり戦争至上主義、戦争賛美者である。
サンフランシスコ講和条約では、殺戮裁判の判決を受諾した。(「裁判の受諾」と勘違いするものもいるが、これは外務省の誤訳である。)千人近くの日本国民の首に縄をつけ馬で引き回して「俺が法律だあ、コイツは死刑だあ」とわめいて殺戮し、更に遺族に銃口を向けて「文句はねえだろうな」と恫喝し、殺戮を認めさせる西部劇の無法者だ。
言うまでないが、そもそも判決の受諾と慰霊をするかどうかなど、何の関係もない。
はっきりいえることは、東京裁判の判決受諾を根拠に「参拝をするな」とする発想は、戦争の全面的な肯定に他ならない。
東京裁判の判決受諾は、戦闘→侵略→国民の蹂躙→国民の殺戮 という戦争の中の一つとして行なわれたものだ。よって東京裁判を肯定することとは、戦闘→侵略→国民の蹂躙→国民の殺戮 ようするに戦争を肯定することに他ならない。
東京裁判の賛美とは、最も純粋で正確な意味での、戦争賛美、戦争至上主義なのである。
銀行強盗が銀行に乗り込み勝手に「裁判」を開始して銀行員を殺戮し、更に生き残った銀行員に判決受諾の文書にサインをさせる。
その後銀行強盗がいなくなった後に、「判決を受諾するとサインをしたのだから、殺された被害者遺族は文句を言うな、警察に訴えるな」と主張する銀行員。こんな銀行員は常識的には狂っていると思うだろう。狂っていないとするなら、銀行にもぐりこんだ銀行強盗の仲間だ。
ましてや殺した銀行強盗が後で「支店長、俺が殺した銀行員を弔うんじゃねえ」と要求するなら、キチガイ未満のケダモノだ。更に「そうだそうだ、支店長は弔うな。判決を受諾するとサインした癖にいい」と吠える銀行員は、ケダモノの垂れた糞みたいなもんだろう。
サヨクはこの詭弁を頻繁に発する。馬鹿馬鹿しさにあきれる。「批判になること」が「行なうべきでない」とする根拠となるのなら、日本が支那から批判されることを全て行なってはならないことになる。
「靖国参拝」→「日本を批判するカードになる」→「参拝するべきでない」
このキチガイ論理を応用するとこうなる。
「日本が軍隊を持つ」→「日本を『軍国主義』と批判するカードになる」→「軍備を持つべきでない」
「憲法を改正する」→「日本を『軍国主義の復活』と批判するカードになる」→「改正するべきでない」
「尖閣諸島の領有権を主張する」→「日本を『侵略者』と批判するカードになる」→「領有権を主張するべきでない」
「支那からの批判」「支那との意見の相違」を「絶対に避けねばならないもの」と位置付けた奴隷の発想であり、日本の内政を決めるにあたって「国民にどんな利益をもたらすか」ではなく「支那がどう思うか」を最上の価値に据える、支那を神聖不可侵とする土人の発想である。
また、「支那が何を言うとかは無関係に、英霊を昭和殉難者を同一にまつるべきでない」と主張する人間がいる。「英霊が殉難者とのごうしを嫌がっている」という物語を勝手に捏造し、英霊を単なる「徴兵の犠牲者」的な卑小で失礼な評価を下した上で。
また「東京裁判など関係無く自分が『戦犯』を裁く必要があると思うのだ」という主張をする者もいる。
民主党管氏もこの主張に近い。
彼らには残念だが、主権回復後の国会は「昭和殉難者は公務jによる死亡」と全会一致で議決し、名誉回復している。「昭和殉難者は犯罪者ではない」が国家の意思なのだ。
小泉氏もこれは知らなかったようだ。愚かなことだ。小泉氏の問題点は「こんなことも知らせ教える側近がいないこと」にある。総理大臣と言えども国会決議の全てを記憶などできない。知らなくともやむおえないのだが、「側近に調査解析させた上で発言行動していないこと。」あるいは「調査もできない側近を任命したこと」が問題だ。つまりは理論武装体制の甘さだ。小泉氏は「○年の国会決議で名誉回復してる。それが日本国、国民の意思だ。行政府の我々は立法府の意思を尊重する義務がある。」と言えば良かったのだ。というか今からそのように訂正しても良い。
もちろん国会決議に異議を持つのは自由だ。昭和殉難者を「戦犯」扱いをしたいのなら、つまり国会の公務死認定に異議があるのなら、国会決議をやりなおした上にするべきだ。首相(行政)は国会決議(立法が定めたこと)に従うべきだし、ましてや議員(立法府の一員)が、国会決議に反するように(「戦犯」扱いするように)首相(行政)に求めるなどと言うのは、ブラックジョークそのものだ。
まあ東京裁判の意図は「日本国民が持つ戦争への惨禍の怒りを、爆撃殺戮した戦勝国でなく日本国内の政府関係者に向けるメンタリティにすること」にある。イジメやすいところをイジメるという人間の卑しい根性を利用した策略だ。
「支那や東京裁判など関係無い」と前置きした上であっても、戦勝国の侵略殺戮を不問にしたり、ましてや戦勝国による空襲などの殺戮を日本政府の責任に転化し「昭和殉難者をつるすべきだ」とわめく者は、結果としてこの策略に100%踊らさせられている阿呆に他ならない。
今、支那との「友好」「平和」のいけにえにさせられているのが昭和殉難者のご家族だ。支那との「友好」のために、昭和殉難者を弔うのをやめろと首相に要求するクズ連中がいる。そのクズは、昭和殉難者のご家族の気持ちや立場を、全く思いやらない。恐ろしいほどに冷酷だ。
このクズは、昭和殉難者に支那にささげるいけにえとなり続けろと実質的に命じている。他人にいけにえになることを求めるクズ野郎。図々しさに反吐が出る。どうしてもいけにえが必要だと勝手に思い込んでいるのなら、自分がいけにえになれ。もしくは自分の家族をいけにえにしろ。
クズは昭和殉難者の家族に、「おまえの夫、親、兄、祖父を支那の歓心を買うためのいけにえとしてささげる。おまえの夫、親、兄、祖父が戦犯として罵倒される立場に、おまえは今後もあまんじ続けろ。おまえの夫、親、兄、祖父を首相が弔うべきでないのだ。おまえらは『戦犯の家族』として人々から指弾されて今後も生きろ。」と実質的に言っている。
そうほざくのなら、まずおまえの自身の家族をいけにえにしろ。そしておまえ自身が「戦犯の家族」として人々から指弾されて生きろ。再びいけにえを貪る機会を得られた支那も、さぞかしご満悦になり「友好」も進むだろうよ。
自分がやりたくないこと、やられたら困ることを他人に求めるんじゃねーっての。クズが。
と筆者が言っても「自分がいけにえとして死んだところで無駄だ。チューゴクとの『友好』には結びつかない。」とクズはかわすだろう。
無駄という点では昭和殉難者を弔わないこともまた同じだ。支那はどうあれ反日人種差別国家だ。昭和殉難者といういけにえを貪り終わったら、支那はまた別のいけにえを求めて吠え立てるだろう。
それに何よりいけにえを弔うな論者自身が、日本が支那にいけにえを捧げることで、支那のお怒りが静まるという妄想を持っているわけだろう。日本人でさえあればいけにえとして成り立つ。他人に要求するヒマがあれば、自分が血と肉と支那に捧げろ。そうすれば支那はいけにえ献上論者の生首を高々とかかげ、死体を焼きその周りで狂喜のダンスを踊るだろう。少なくともその踊りの間は支那の「お怒り」は静まるだろう。
いけにえとは神にささげるものだ。大自然の猛威などになすすべのない人々が神にささげてひたすら神の怒りを静めようとささげるのがいけにえだ。
支那米国は吊るし上げ裁判で日本人をいけにえとして大量に殺した。靖国参拝するな派は、それをあたかも災害か何かで死んだかのように、何ら怒らず疑問視もせず当然視し達観する。更に「いけにえを弔うな」とまで狂った厳命をされてなお盲従崇拝する。まさに土人だ。大自然を畏敬する土人が災害を神の裁きと解釈し何人殺されようがただひたすらこうべを垂れかしづき続けるように、おろおろぺこぺこ支那を崇拝しつくしている。こういう異常なまでの外国崇拝の病理が、まさに戦後日本の病理なのだ。
世界の憲法には神託という形をとるものも多い。神からの神託ゆえに尊く守らねばならないという建前により成り立つもの。
言うまでもなく日本の現憲法はアメリカが作った。憲法を神からの賜り者とする神託憲法的発想に立つと、現憲法をいただく戦後日本はアメリカ(外国)を神として崇拝する政体と言える。
神のお怒り(空襲、原爆投下)にふれ、神のお裁き(東京裁判)にかしづき、神託(憲法)を与えられ、神に「平和国家」と認めていただくことが目的の政体。まさに憲法前文などを読むと、そういうチンケな外国崇拝が山盛りだ。
憲法を始めとしたアメリカの排泄物をあがめありがたがるスカトロ根性から叩きなおす必要がある。