平成十二年五月三日(ネオ麦茶バスジャックの日。憲法記念日とも言う)の朝日新聞社説は、いわいる護憲という主張を要約したものであった。
これはまさに、護憲(=サヨク)という存在が、いかに病理に満ちているかを完膚なきほどに表現したものだった。こういうトンデモ君の主張を読むことで、筆者はあらためて憲法改正の必要性を感じた。
以下にその内容を記し解説する。
■憲法記念日――後ろ向きの「押しつけ論」
施行53周年の憲法記念日である。
国会では、衆参両院に初めて設置された憲法調査会での論議が進んでいる。 国家の根本規範である憲法に関心を持ち、その中身やありようについて意見を交わすことは、民主主義を深化させていくうえで望ましい。その意味で、憲法調査会が、時代にふさわしい真しな論議の場となるのであれば、意義は深いだろう。
●「自立」と絡める主張も
しかし、国会、とくに衆院調査会での論議を聞いていると、危うさを感じざるを得ない。憲法の制定過程を最初の主題に選んだことで、古典的な「押しつけ憲法論」が再び頭をもたげつつある感が否めないからだ。
日本国憲法が、日本国民の意思には基づかず、米国を中心とした連合国軍総司令部(GHQ)によって押しつけられたものだ、とする議論は何十年も前から展開されてきた。憲法の正統性を問う主張といっていい。
朝日社説はまず、朝日自身に危うさを感じさる得ない↓こういうトンデモ論理で幕開けだ。
結論
国会、とくに衆院調査会での論議の内容は、危うさを感じるものだ。
根拠:
「押しつけ憲法論」が語られているから。
現憲法は押し付けだからダメとする「押し付け憲法論」は全く正論だ。これを「危うさを感じるもの」と主張するのなら、例えば↓こういう主張も可能だ。
日本は支那に現憲法を与えるべきだ。様々な洗脳や恫喝を行ってでも。もしこれに支那政府当局が反対するのなら、それは古典的な「押し付け憲法論」というべきであろう。日本が支那に憲法を与えようとした時、支那政府当局がこういう動きに出たのなら、支那に危うさを感じさる得ない。
支那は偏狭なナショナリズムを捨てて、日本からありがたく憲法を拝領するべきだ。占領後の日本のように。内容は立派なケーワケンポーなのだから。
朝日新聞のように制定過程を重視せず、内容のみに着目すると例えば↑こういう主張もありうる(というか現憲法は内容もダメなのだが)。
そもそも民主主義とは、何より制定過程が大切という考え方だ。朝日のように、憲法や法律が、制定過程がどうあれ結果的に良いものであれば(というか現憲法は悪いものなのだが)いいという考え方とは逆の考え方だ。
例えば、立法における民主主義とは、国民自身が立候補し、国民自身が秘密選挙で選んだ代議士に憲法や法律を作成させようというものだ。民意から何一つ制度的に審判されていない外国占領軍や貴族や高級官僚や独裁者など、一部権力者が作成することを容認するのではなく。
民主主義は、政治において制度的な民意の反映という過程を重視する考え方なのだ。
よって、「押し付け憲法論」は、民主制度を支持する発想に立った場合完全に正しい。「現憲法は民意によってなんら選ばれていない占領軍という組織が勝手に作り、押し付けたものだからダメという主張」=「押し付け憲法論」は、一部の誤謬も無く正しい。
などと筆者が四の五の言う以前に、「法や憲法は国民自身により作られるべき。」こんなことは民主国家では当たり前のことなのだか。
朝日のような、憲法の制定過程を軽視する論調。こういう論調を読むと、我が国の一部(要はサヨク連中なのだが)では民主主義が全く理解されていないことを改めて感じる。民主主義の空念仏をひたすら唱える連中(朝日とか日教組)は、おうおうに極めて非民主的である。
こういう連中の民主主義とは、極めて御都合主義的である。↓こういう感じの。
@ 国民から選挙で全く選ばれていない占領軍素人メンバーが作成し、占領軍に統制され全く自由な論議のできない帝国議会が承認した現憲法→制定過程が極めて非民主的であることに思考停止
@ 国民から選挙で選ばれた代議士が起草し作成し、完全に自由な論議のできる議会が承認した国旗国歌法→さも制定過程に問題があったかのように大騒ぎ
議決など民主的な政治の方法論(制定過程)を、反対のときだけ重視し、賛成の時は軽視する朝日のような発想。つまりは、朝日の押し付け憲法論ハンタイは、朝日自身の自白となっているのだ。
朝日「本質的には、私は民主主義(民意を重視する制定過程)などどうでもいいと考えている。民主的な制定過程をえた憲法法律が、賛成できる場合のみ制定過程を権威付けに利用する。憲法や法律は、私が賛成できるかのみが重要であり、民主的な制定過程などどうでもいいのだ。つまり民主主義などどうでもいいのだ。」
憲法や法律の正当性を論じるにあたって、朝日のように制定過程を軽視する発想とは、民主制度そのものを軽視する発想があって可能なのだ。
現憲法は一応帝国議会の承認を得ているが、占領軍の文字どおり監視下で可決されたものだ。(占領軍は議場内にも目を光らせていた。)つまり、議会議員が自由な政治的意志を行使できない状態で可決されたものなのだ。
しかし、議員が自分自身の政治的意志にもとずき自由に議場で発言できない支那みたいな社会体制を愛する朝日なら、こういう言い草もありうるんだろうな。
こういう民主主義のイロハも理解していない連中が存在するのは、そもそも現憲法が民主的な経緯をえて制定されていないものだからだ。改憲しなければならない。
最近では装いを新たにした形で、日本人の「自立」や「自己決定」を回復させるには改憲が必要だ、という論も出ている。 国際協調や国際貢献のために9条を改定すべきだ、といった主張が一定の支持を集めていることは承知している。
しかしながら、私たちは、国家戦略として、憲法9条は改定すべきではない、との立場をとってきた。「軍事に優越的な価値を認めない」という戦後日本の枠組みは、9条あってこそのものであり、わが国の安全保障にとっても、改定はむしろ害が大きい、と考えるからだ。
朝日社説では「害」の内容が明瞭ではない。
ここでいう「国家戦略」とは支那の国家戦略のことと思われる。おまけに「わが国」とは、どうやら支那や北朝鮮を指すものと思われる。確かに、日本が改憲し軍備を整えれば支那の侵略的な国家戦略にとって害が大きい。
こういう外患体質の連中が存在するのは、そもそも現憲法が外国製のものであり、外国の国益(外国の軍事的優位の永続)を重視した外患憲法だからだ。改憲しなければならない。
それは、国民世論の方向とも一致している。ばくぜんとした改憲論への賛成意見は確かに増えてきたとはいえ、9条に関してはそうではない。
憲法施行50年にあたり朝日新聞社が行った全国世論調査では、回答者の69%が9条について「変えない方がよい」と答えている。憲法の平和主義に対する国民の信頼は、なお高いといえよう。
朝日の世論調査に対する国民の信頼は、極めて低いといえよう。今までもさんざん恣意的でいかがわしい選択肢の世論調査を行ってきた。おまけの朝日の読者、中でも積極的に世論調査に答える層は、全く日本人一般の意志とはかけ離れている。
朝日の世論調査など信憑性なし。
他方で、「知る権利」や環境権、プライバシー権などを憲法に明記する、といった議論も起きている。こうした主張をぶつけあい、その利害得失を論争するのは、日本の将来像を考えるうえで有益なことだ。
まず、朝日自身が、社説を記した記者の名前を朝日読者が「知る権利」を認めてもらいたい。犯罪被害者のプライバシーをも重視してもらいたい。他人はどうでもいいから。
だが、「押しつけ憲法論」は、こうした論争と異なり、後ろ向きだ。もっぱら憲法の成り立ちに疑問の目を向け、改憲そのものを目的とすることにより、しばしば、国家主義や狭いナショナリズムをかきたててきた。
「押しつけ憲法論」を主張した。→こう主張している人物は改憲そのもののみを目的としている。
↑こういう論旨を書いたこの人間は馬鹿である。「押し付け憲法論」を主張する人間を、勝手に成り立ちのみに目を向けていることにするな。
何かについて、ある観点で論じ、かつその人物が別の観点を持つことはありうる。こんなことはあたりまえだろう。例えば筆者は「現憲法は押し付けだからダメ」と主張している。そして内容もダメと主張している。
国会などにおいて「押し付け憲法論」を主張した人間もまた、憲法の内容など導入経緯以外の観点で現憲法を否定することは当然ありうる。
また、そもそも現憲法は押し付けだからダメという「押しつけ憲法論」自体が正しいものだ。根拠は上記に。
自国の憲法は自国の人々により作られるべきという主張は、全く「国家主義や狭いナショナリズム」でも何でもない。しごく当たり前の主張としか言いようが無い。
仮に日本政府が支那政府に日本の現憲法を押し付けようとした場合、支那政府は当然拒否するだろう。こういう支那を「国家主義や狭いナショナリズム」と、朝日が断じるのならそれなりの説得力はあるが。
こういう他者の主張を勝手に妄想するアブない連中が存在するのは、おそらく現憲法が空想平和主義というアブない妄想の産物だからだ。改憲しなければならない。
だいたい何が「後ろ向き」だ。朝日の癖して生意気だ。
憲法の制定過程を検証することが、後ろ向きなのではない。後ろ向きなのは、五十年以上昔の憲法を今なお崇め続ける骨董憲法オタクの朝日新聞だ。朝日は五十年前の大昔の世界から、現代社会に戻るようにしろ。少しは前向きになれ。
総司令部が憲法草案を作成し、その強い影響力の下で、日本政府に制定を促したことは間違いのない事実といえる。 しかし、これをそのまま、「押しつけ」とみるかどうかは、視座をどこに据えるかによって違ってくる。
その視座の据えどころが支離滅裂で腐っている。理由は下記に。
●国民はどう評価したか
敗戦当時、天皇主権の「国体」を守ることに腐心した為政者たちは、大日本帝国憲法と本質的に変わりのない憲法をつくろうとしていた。そのことが、総司令部による草案の作成、提示という事態を招く。
寒気がするような屈折した卑屈な言い回しだ。 日本の「為政者」が占領軍の十分に気に入る憲法を作らず、それにより占領軍が憲法を直接作成し押し付けたことについて、何と日本の「為政者」を非難している。「為政者」に対して、占領軍のご意向汲み取り不足を非難している。もはや占領軍の奴隷ぶりを何ら隠さず剥き出しにしている。
筆者はサヨクを口汚なく汚物呼ばわりしているが、その理由がまさにこの点にある。外国のご懸念お怒りご指導を騒ぎ立てることなどで、国民が持つ政治権力を外国に献上することに情熱を発揮する有様が汚物なのだ。「日本は米国の気に入る憲法を作るべき」という腐った前提に立つ汚物、つまり本来国民にあるべき憲法制定権を米国などに積極的に献上したがる汚物。ヘドが出るような占領軍の犬ぶり。
占領下に外国に憲法を押し付けるような行為は、間違っているに決まっている。憲法はその国の人間により造られるべきだからだ。こんなことは当たり前だろう。間違った行為こそ非難されるべきだ。朝日はこんな当然のことも解っていない。だから、間違った記事を始終掲載できるのであろう。
占領中とは、まさにこんなふうに日本のマスコミが占領軍の犬となった時代である。率先して占領軍の犬となった日本人が、占領軍の権力をかさに他の日本人に占領軍様のご意向汲み取り不足を非難した時代である。日本史上最も恥ずべき時代だ。
朝日は、外国のご懸念お怒りご指導を騒ぎ立てることなどで国民が持つ政治権力を外国に献上する犬癖がいまだに抜けていない。そもそもサヨクとは占領中モードで腐った存在のことなのだ。
こういう占領軍の犬癖の抜けていない連中が存在するのは、現憲法は、占領軍から犬への賜り物だからだ。改憲しなければならない。
いずれにせよ、「天皇主権の国体」とか、占領軍の洗脳を引き継いだ共産党などでおなじみの妄想から始まっているところから既にダメなのだが。
彼らにとっては、総司令部が示した国民主権を軸とする草案は、まさに意に反する「押しつけ」と感じられたであろう。
「彼ら」のみならず、今の多くの国民も「押し付け」と感じている。あたりまえだ。
1946年5月27日付の毎日新聞に憲法に関する世論調査の結果が載っている。
草案が打ち出した象徴天皇制に対しては、85%の人が支持し、反対は13%にすぎない。天皇制の廃止を求める人は11%、それに反対する人は86%だった。
戦争放棄条項を必要とするか、との問いには、70%が「必要」と答え、「不要」の28%を大きく上回った。国民の権利、義務、自由について、草案の修正を望む人は33%、それに反対する人は65%だった。
当時の国民が、現憲法の骨格となる理念や条項をおおむね支持し、これを新しい国づくりの指針にしようとしていたことがわかる。「国体」にこだわった為政者の意識とは、相当なずれがあったというほかない。
ここの論旨は↓こうだ
結論:
現在の憲法は押し付け憲法でない。
根拠:
昭和二十一年(西暦1946年)五月二十七日付の毎日新聞に憲法に関する世論調査の結果で、
@ 草案が打ち出した象徴天皇制に対しては、85%の人が支持し、13%が反対だったから。
@ 「天皇制」の廃止を求める人は11%、それに反対する人は86%だった。
@ 戦争放棄条項を必要とするか、との問いには、70%が「必要」と答え、「不要」の28%を上回ったから。
@ 国民の権利、義務、自由について、草案の修正を望む人は33%、それに反対する人は65%だったから。
↑これは、支那共産党のプロパ以下の話にならない詭弁だ。根拠は全く結論に結びつかない。なぜか。
理由1:この世論調査は占領軍の言論弾圧監視下で行われたものだから。
昭和二十一年と言えば、占領下バリバリの時期である。当時のマスメディアは、占領軍の徹底した言論弾圧により占領軍を批判する言動を禁止されていた。憲法投下に疑問を呈するなど、占領軍の政策に反対する意見など掲載されるはずがない。
言論弾圧体制下における政治的な事柄への「証言」を丸ごと信じる有り様。文化大革命というとんでもない恐怖政治における文化大革命を賛美する「証言」を丸ごと宣伝する朝日らしい内容だ。
むしろ、これは当時の毎日新聞が占領軍の腰巾着となた罪を証明する資料にしかならない。終戦により突然占領軍の走狗に寝返って、占領軍による憲法投下の正当性を喧伝した罪の。
理由2:人々が占領軍の洗脳政策により狂気に陥っていたから
「オウム真理教の信者はオウム真理教の教えを尊んでいる→よってオウム真理教の教えは尊い」。などという主張の馬鹿馬鹿しさを、読者は即座に理解するだろう。オウム真理教の信者は洗脳下にあるため、客観的な判断ができない状態だからだ。
当時の日本人も全く同じである。徹底した弾圧と言論統制を行い、国民意識を完全に管理統制したのだ。
恐怖と言論弾圧の支配下にある信者によるその宗教への見解など、ほとんど客観性が無い。時を経過して洗脳から解き放たれた現在の意志こそが重要なのだ。現在の改憲を必要とする国民の意志こそが正常なのだ。当時の意志などでなく。
理由3:占領軍による改憲による各項目に賛意があることが、占領軍による改憲そのものへの賛意を示すことにならないから。
当然のことである。
理由1、2で説明したように「国民の支持」という認識そのものが腐ってい上、論法自体が腐っている。前提認識(占領憲法の項目を国民が支持したという認識)自体が間違っている上、結論に至る経緯もまた話にならないものだ。
だいたい、占領軍の検閲の無い今現在ですら、世論調査など各社多様で更に流動的だ。当時の国民が支持したと主張する根拠が「世論調査」では、お粗末すぎだ。
こういう支那政府まがいの言論弾圧洗脳恐怖政治下における「世論調査」とか「証言」とかを臆面も無く垂れ流す連中が存在するのは、現憲法が言論弾圧洗脳恐怖政治下に投下された歪曲憲法だからだ。改憲しなければならない。
であればこそ、占領期が終わり、制定の経緯が次第に明らかになっても、国民の間から「押しつけ」を理由とした改憲論が大きく盛り上がることはなかった。制定過程は、すでに克服された問題とみるべきである。
本末転倒な言い草で話にならない。占領が終わった後にも占領軍の洗脳から解き放たれることがなかったのは、朝日、毎日、旧社会党、共産党、日教組、何より日本政府が占領軍による洗脳を引き継いだからだ。
しかも今現在、改憲論が大きく盛り上がっている。制定過程の問題は、今なおなんら克服されていない。内容は言うに及ばず。
こういう占領軍の洗脳に狂った連中が存在するのは、現憲法が占領軍による洗脳を文面とした洗脳憲法だからだ。改憲しなければならない。
自分で煽って引き起こした事態を、煽られた人間による能動的な行為だと強弁する病理。朝日デマ報道朝鮮人虐殺事件などに見られる朝日おなじみの体質だ。
●排外主義に通じる恐れ
にもかかわらず、いま改めて「押しつけ憲法」を強調するのはなぜか。
長谷川三千子・埼玉大教授は共著「憲法改正」(中央公論新社)の中で、「われわれは単に『自主憲法』制定をとなへるのみならず、『国民主権主義』(及び『君主主権主義』)をも正しく批判しなければならない」と書いている。日本古来の君民の関係は、統治−被統治を超えたものとの考えらしい。
憲法は押しつけられたものだ。だから、そこには日本独特の価値観が反映していない。日本にふさわしいものにつくり直すべきだ。このような復古主義的な発想は、狭量な排外主義にもつながりかねない。
それをあながち杞憂(きゆう)といえないのは、憲法がめざした国際主義、普遍主義に逆行するような動きが、昨今目立つからだ。
昨年の通常国会では、賛否の声が渦巻く中、国旗・国歌法が制定された。
今春には首都の知事が、排外的な響きのある「三国人」発言を、本人がそう呼ぶ「軍」の前で行った。その言動を支持する人も少なくない。
朝鮮半島では南北首脳会談の開催が決まり、緊張緩和の流れも見え始めた。それなのに日本では、近隣の脅威を強調する9条改定論が飛び交う。殉国を美化するような漫画が一部の若者を引きつけている。
この部分について、朝日アジビラ用語をできる限り普通の日本語に翻訳し、論旨をまとめると↓こうなる。ちなみに翻訳できない朝日アジビラ用語は<>で囲った。(それにしても、朝日の記者は、いちいちかみ砕く必要の有る煩雑な文章など書くな。)
結論:
「現憲法は日本独特の価値観が反映していない」という批判は、<排外主義>につながりかねない。
根拠:
<国際主義>、<普遍主義>なるものと逆の動きが、昨今存在するから。
朝日のいう「<国際主義>、<普遍主義>なるものと逆の動き」の事例が↓これ。
事例1:国旗・国歌法が制定されたこと。
事例2:首都の知事が、三国人という言葉を話したこと。
事例3:近隣の脅威を視座した憲法第九条改定論が人々の間で支持されていること。
事例4:殉国された日本軍兵士の方々に敬意を払った漫画が若者に支持されていること。
こういう主張を書いた人間は本当に馬鹿だ。なぜこの言い草が馬鹿げているのか。そもそも論法にすらなっていないからだ。朝日の主張は↓こういう意見である。
結論:意見A(「現憲法は日本独特の価値観が反映していない」という批判)により、B(<排外主義>)になる可能性がある。
根拠1:Aと関係があるかもしれず、Bと無関係な事例(事例1)があるから。
根拠2:Aと無関係で、Bだと朝日が思った事例(事例2)があるから。
根拠3:AともBとも無関係な事例(事例3、事例4)があるから。
目茶苦茶である。AとBの関わりが根拠で全く説明されていない。根拠が根拠として成り立っていない。
事例1など全く根拠にならない。国旗・国歌法が制定されたことは、<排外主義>なるものと何の関わりもない。国旗国歌を尊ぶことは<国際主義>的、<普遍主義>的な当たり前のことだからだ。むしろ、国旗国歌以上に世界中で普遍的な事柄は存在しないとすら言える。
事例2など更に根拠にならない。首都の知事が、三国人という言葉を話したことと、「現憲法は日本独特の価値観が反映していないという批判」とは、何の関わりも無い。三国人なる認識(当事者でなく第三者的な立場の国の人という認識)は、日本独特の認識ではない。国という概念の存在する全ての地域で、<国際主義>的、<普遍主義>的に当たり前のことだ。
事例3、4など根拠にならない度MAXである。「近隣の脅威を視座した九条改定論が人々の間で支持されていること。」や、「殉国された日本軍兵士の方々に敬意を払った漫画が若者に支持されていること。」は、「現憲法は日本独特の価値観が反映していないという批判」とも、<排外主義>なるものともまるで無関係だ。
近隣国の脅威を視座して国防を行うなど、<国際主義>的、<普遍主義>的に当たり前のことだ。兵士や警官による殉職に国民が敬意を払うのもまた、<国際主義>的、<普遍主義>的に当たり前のことだ。
論理構築力の未熟な中学生あたりが、なんとなく思ったことをだらだらと記すと、おうおうにこんな文章になる。代名詞の示す内容が不明瞭であったり、安直にテニオハを省略して支離滅裂になったり、根拠が全く根拠になっていなかったりする。なんとなくの雰囲気だけを練り固めたような代物。
こんな日本語が大新聞の社説としてまかり通る有り様。はっきり言って目茶苦茶恥ずかしい。一日本人として。
日本人はこんなに馬鹿ですよーと内外に喧伝し、対日侮蔑感情を熟成するための策略であるなら、完全に成功している。しかし、おそらくそういう策略ではなく、本人結構得意になっているんだろうなあ。「でへへ、ボク大新聞の論説委員だぞお。エッヘン。ボクは、ヘーワケンポーを守るセーギの使徒ぞお。ケンポーを変えようとするワルモノをヤッツケルんだあ。」
無駄だと解っているが、筆者は叫ばざるえない。「た、頼むからこんなハズカシイ文章を臆面もなく掲載しないで欲しい。」と。
現憲法を<国際主義>、<普遍主義>などと詩的表現して自己完結する有り様。やたら気色悪くダサすぎだ。あえて言うのなら、現在の憲法にあるのは「外患主義」、「独善主義」である。
<殉国を美化するような漫画>ってか。「文化大革命を美化した新聞」、「殉国を侮蔑し戦争遺族を苦しめてきた新聞」、「支那政府による虐殺を隠蔽する新聞」が、何をボザくのやら。それにしても、小林よしのり氏の著作が朝日などサヨクに及ぼした影響力の大きさには改めて実感する。サヨク諸氏を、小林モードで頭が腐らせることに見事に成功している。
民族や国の伝統を大切にする発想を、単純に<排外主義>と罵倒する発想。戦前における朝鮮を併合する主張への朝鮮側による反対を、朝鮮による<排外主義>と非難した人物が、日本や朝鮮にいたという。この<排外主義>は退けられ、結局日朝は併合された。
こういう論理性の欠如しまくった主張を臆面も無く行う連中が存在するのは、きっと現憲法が「ナントカのケンリ」とか誰に誰がどんな責務を負うのか不明瞭な点など、論理性の欠如したドシャメシャ憲法だからだ。改憲しなければならない。
日本国憲法制定への過程を描いた戯曲「真珠の首飾り」の作者ジェームス三木さんは、総司令部草案を作成したスタッフが、北欧や共産圏を含む各国の憲法を集めることから作業を始めた点を指摘して、こう語る。
「彼らは世界の憲法のいいところを集めようとした。日本国憲法の本当の作者は、歴史の英知だと思う」
曲折を経ながら今世紀の世界は、民主主義と平和への努力を重ねてきた。それは次の世紀へと続く、とうとうたる流れである。
ここで朝日がいう「平和」とは軍備放棄条項のことと思われるが、そんな「とうとうたる流れ」など、日本の一部以外、どこにも存在しない。戦後五十年以上世界中で憲法が制定され改憲されてきたが、現憲法を投下した米国をも含む、いかなる国においてもこんな軍備放棄憲法を採用していない。採用しようという動きもない。支那政府も、日本にそういう「流れ」を守るように押し付けるが、自分の国で採用しようなどと全くしていない。
何が「とうとうたる流れ」だ。読んでいるこっちが恥ずかしくなるセリフを臆面もなく吐くな。
おまけに現在の憲法を「民主主義の流れ」などと陶酔表現。現憲法が全く民主的な経緯をえて制定されていないことが頭から完全に抜けている。というか意図的に抜かせている。国民から選ばれた代議士が起草し、代議士に自由な発言が認められた議会が可決してこそ民主主義と言えるのだ。現憲法は完全に導入経緯が非民主的なのだ。
おまけの、導入経緯のみならず現憲法が導入された結果にも非民主的な側面がある。現憲法は、日教組などによる民意を無視した組合官僚による暴走を生み出している。国民から選ばれた代議士など政治家からの命令を臆面も無く無視する官僚の暴走を。言うまでもないが民主制とは、国民が立候補し国民が選挙で選んだ存在が政治を行う(つまり官僚の上位に立って官僚に命令する)社会体制である。
現憲法は占領軍による日本の民主主義侵害の権化なのだ。導入経緯、結果双方において。
読んでみて誰もが感じるのは、「とうとうたる流れ」とか「英知」とか、嫌らしい詩的表現で現憲法を美化する点など、自分の論旨に酔いしれた寒気がするような独善だ。多くの人々が批判しているが、朝日の記事には、主観に満ちた形容表現が多い。「後ろ向きの」、「古典的な」、「ばくぜんとした」、「逆行するような」、「殉国を美化するような」みたいなやつだ。全て、読者側が判断するべき感想部分を勝手に記述する有り様。
そういうば、旧ソ連でも「日本の間違った領土要求をどう思いますか。」などという問いかけが、テレビアナウンサーにより行われていた。設問に結論が入っとるやんけ。
思い込みで始まり、思い込みで形容し、思い込みの結論になだれ込む。一貫してトンデモ仮想話で酔いしれる有り様。
こういう気恥ずかしくダサい詩的表現で酔いしれて物事を主張する連中がいるのは、きっと現憲法が恥ずかしい抽象ボキャに埋め尽くされた文学女学生憲法だからだ。改憲しなければならない。
例によって誰が書いたのかを隠蔽した社説。朝日の大看板の裏に隠れて自称プロ記者がコソコソ執筆。とはいえ、筆者にしてみれば、個人名義の文章でないために存分に馬鹿扱いし批判できる点は結構だが。
記事は徹底的に客観的であるべきだが、社説では社の主張を記し明瞭に偏向するべきというのが筆者の主張だ。朝日の場合は、記事は偏向に満ちており、社説は偏向どころか妄想の領域に突入している。
この社説は典型例だが、サヨクは時に頭が弱いのではないかと思えるほど独善的で飛躍した珍論を披露する。そういった珍論を大まじめに批判する行為は、あたかも松葉杖で歩く人間が遅いことを非難する行為にも似た、うしろめたさ恥ずかしさを感じさせる。「朝日の社説がツッコミ所満載の白痴文なのは周知の事実。そんなもんを今更ツッこんで、いい気になってんじゃねーよ。」という批判を受けそうな脅迫観念にかられる。
こういう片輪への優しさにも似た心情から、サヨクの妄言を真っ向から批判する行為を慎む人は多いように思う。しかしそれは真の優しさではない。
悪行を放置する行為を「優しい」などとは言わない。悪行を放置する行為は、むしろ悪行の犠牲になる人々に対して冷酷な行為である。また悪行を行う本人に対しても冷酷である。そもそも悪行を行うこと自体が不幸なことだからだ。
読者諸氏は、朝日の社説を読んであらためて感じたはずだ。「護憲の主張とは、ここまでいいかげんで独善的で病理に満ちていたのか。こりゃ、絶対改憲は必要だな。」と。
既に時代は、改憲に向けた「とうとうたる流れ」に向かっている。朝日による、「流れ」への逆行を許してはならない。