サヨクの中には、国家(正確には政府機構)、民族、宗教不要論をさえずる者もいる。要するにそういったサヨクが言いたいこととは、「世間にいる普通の人はこういった存在を疑問視しない凡人。だけど、ぼくはそういった常識を疑問視する知恵があるんだ。ボクは普通の常識に縛られないエライ人なんだぞお。」ということだ。現実は、単にサヨクからのカビの生えた古臭い刷り込みをリフレインしているというだけなのだが。
ある種のサヨクが不要と考える国家、民族、宗教。実はこれらの存在しない世界は実在する。サヨクの理想境とでも言いうる世界だ。
それがどんな世界かを列記する。
こういう世界は実在する。例えば南米の奥地などにある荘園だ。
地理的な理由などから、ここには国家権力の手は及ばない。国家(政府機構)の存在しない世界だ。国家からの干渉の及ばない世界とは、↓こんな世界だ。
国家権力の及ばないその場所では、当然誰も法を制定し遵守を強制しない。
よって領主は農奴にいかなる過酷な労務を強いても、更に気まぐれに殺しても誰も逮捕しないし、裁かれることもない。
領主も農奴も国家権力による法的拘束から完全に自由である。領主は銃器で農奴をサトウキビ畑に縛りつける自由がある。農奴もまた逃亡し捕まり拷問にかけられ殺される自由がある。
国家権力の及ばないその場所では、当然誰も納税を強制しない。
よって富は著しく偏る。荘園での収穫を管理する存在である領主には徹底して富が集まりますます支配を強化する。農奴はあばら家でサトウキビなどあまった作物を舐めて暮らす。
領主も農奴も納税から完全に自由である。領主は膨大な利益を何一つ国家に奪われずにすむ。国家が富者から徴税しないため、農奴もまた国家から福利厚生として分配を受けずにすむ。よって、例えば病気になっても医療にかからずにすむ。水道や電気など公的なサービスを受けずにすむ。飢餓にあっても食料を与えられずにすむ。
国家権力の及ばないその場所では、当然誰も学校に行くことを強制しない。
よって、教育レベルは著しく偏る。教育の重要性を理解している領主の子弟は、読み書きなどを学ぶ。しかし誰も教育を強制しないため、農奴は代々学ばずにすみ、読み書きなどの教育の重要性そのものを理解せずにすみ、理不尽な支配を受けていること自体を認識せずにすむ。
農奴は家畜と同じく教育の強制から完全に自由である。
独自に武装し国家権力を排除している南米奥地やアフリカの荘園では、まさにこうなっている。これが国家権力の存在しない世界である。
国家権力の存在しない世界(つまり奪い殴り殺す行為を、誰も公的にとがめない世界)なら、強い者が弱い者を殺し支配して終わりである。全てが自由であるなら、そこは弱肉強食の世界となるだけだ。そして南米奥地やアフリカの荘園では、まさにそうなっているわけだ。
国家権力のシハイを嫌うサヨクは、こういう国家権力の及ばない場所で暮らすのも良かろう。領主にも農奴にも、国家は何一つ押し付けない。他人を殺し奴隷とし、あるいは他人から殺され奴隷とされても公的なとがめだてはない。まさに自由な世界だ。
こういう世界は実在する。例えばアメリカの黒人である。
アフリカには独自の文化を持つ多くの民族部族がある。そういう所からアメリカに奴隷として連れられた黒人は、民族の文化を根こそぎ奪われた。ルーシーとかトム(日本語のイメージでは、例えばポチとかタマ)などの名前を付けられ、服装も宗教も音楽も全て伝統的なものとはかけ離れた生活を強いられた。
つまり、白人の手により黒人は民族から「自由」になったわけだ。
ヨーロッパ系の移民は、イタリア系とかフランス系などの文化的背景をもって暮らしている。アメリカに移住した後も敬謙なカトリック教徒というイタリア人も多いに違いない。
しかし現在の多くのアメリカ黒人は、自分の祖先がどんな文化を持っているかも解らない。自分の祖先がどの地方の何族で、どんな言葉でどんな教えでどんな風に暮らしていたのかさっぱり解らない。白人はイギリス系とかドイツ系などと自分の民族文化を理解しているが、黒人は黒人という分類のみしかない。黒人は民族から「自由」になったわけだ。
アメリカでの黒人の犯罪率は極めて高い。
民族の文化には長い間培われた道義道徳もある。ひとがどう生きるべきかを指し示した民族の教え。それを丸ごと白人に奪われたわけだ。黒人が無秩序になるのは、むしろ当然だと考える。キリスト教など白人の教えで秩序だった行動をさせようにも、それは黒人自身の教えではない。従えという方が無茶だ。
白人から付けられた白人風の名前に我慢のできない黒人も出た。当然の感情である。しかし祖先から伝わる伝統的な名前を付けようにも、祖先がどこの何族なのか皆目解らない。解ったとしても、名前にまつわる文化的背景やイメージなどは自分の体から抜けてしまっている。そういう黒人の中にXと名乗る者も出た。(マルコムXのこと)
自分にXと名付けねばならない黒人の気持ちなど、民族の伝統がほとんど空気同様になっている我々日本人には皆目見当もつくまい。
民族を失うとはどういうことか。それは白人により民族から「自由」にされたアメリカの黒人こそが最も理解しているに違いない。
1930年代から大東亜戦争にいたるまでの時期における、アメリカ黒人による日本観が紹介されている。
世界中の有色人種国家が侵略支配されつづける中、当時唯一残った有色人種先進国として独立を守っている日本。しかも白人国家ロシアと戦い勝利した日本。国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという提案を掲げている日本。その日本に、差別に苦しむアメリカ黒人が人種解放の夢を抱いた有様が報告されている。
これはアメリカ黒人のみの有様ではない。日本軍が破竹の勢いで大東亜戦争を戦い欧米列強の軍隊を撃破した時期には、ニュースソースを得ることができる差別と支配に苦しむ全世界の有色人種が感激に震えたのだ。人種解放闘争で有名なマルコムXは「私が参加したいのは日本軍だ。」と断じている。
こういう世界は実在する。例えば支那や旧ソ連である。
こうした国々では、共産党政権による徹底した宗教弾圧が行われた。また支那では今も行われている。宗教者は収監され殺され、数百年続いた宗教施設は破壊された。そして支那人や旧ソ連人は宗教から完全に「自由」となった。
共産党が宗教を弾圧したのは、自ら以外のいかなる権威の存在をも認めないためだ。権力はもちろん全ての権威は共産党最高幹部に集約されるべきだという発想。そしてそれは成功した。共産党により宗教から「自由」になった人々は、共産党への狂的な忠誠を発揮した。
共産党により宗教から「自由」になった人々は、政敵あるいは政敵と誤解した人間を殺し始めた(文化大革命)。支那では時には食べた。
宗教はおおむね殺すことや人食を禁じる。そういった宗教という「陋習」から人々は自由になった。
更に権威権力を掌握した共産党は政敵をつるし上げ殺すことを推奨した。宗教の教祖からの殺人許可が出たわけだ。人々は、のびのびと政敵を殺した。
そして近年日本にも日本人の伝統的な価値観から解き放たれた「自由」な人間が多い。
「売春は悪いこと」などという古い価値観にとらわれない女学生は援助交際を始めた。「恐喝は悪いこと」などという古い価値観にとらわれない学生はオヤジ狩りを始めた。「人殺しは悪いこと」などという古い価値観にとらわれない人間もちらほら出てきた。
日本もまた宗教の存在しない「理想境」に着実に向かっている。
ある種のサヨクが夢見る、国家(正確には政府機構)、民族、宗教のない世界。その世界が結果としてどんな世界になるかをご堪能いただけたと思う。
サヨクのアンチ国家プロパは、もともと革命の下準備としての無秩序状態作りだった。そのプロパでなんとなくアンチ国家ムードに飲まれた下級サヨクが、こういうボケ主張を大まじめでするようになったわけだ。
国家のない世界で暮らす農奴。仮に彼らに社会体制に関する教養があればこう考えるだろう。「公的な機関が決まりを定めて、領主であろうが農奴であろうが公的な機関が公正に裁く世の中であればいいな。」と。しかし現実には公的な機関などは存在せず、領主はすき放題でき農奴はその家畜として暮らす。
多くの日本人は恵まれすぎている。おまけにそのことを理解していない。世界に暮らす多くの人々が求めてやまないものが、日本には有り余るほどある。例えば、民族の文化(チベットのように異民族の支配下にあって民族文化を粉々に破壊されている人々などなんら珍しくない)。高度な治安。最低の教育(国民のほとんどが学校に行けない国は今も多い)。雇用(失業率5%の『不景気』などは諸外国の常識の範囲外である。史上最高の好景気と言われるアメリカが失業率5%。)。
要するにサヨクの国家不要論などは、苦労知らずの王女様のたわごとなのだ。法治や治安や教育など国家がもたらしている恩恵。現代日本ではこれがあってあたりまえになってしまっている。というか、あってあたりまえになりすぎている。あたかも空気のように。
よって気軽に「パン(国家)が無くたっていいのよ。お菓子を食べればいいじゃない。」などとさえずってみたりする。パンもお菓子もあってあたりまえの世界に暮らす人間なら、こういう発想もありうるだろう。
不足しなければ必要性を理解できないようでは馬鹿である。
国家不要論をさえずる者は、南米奥地の農園で農奴となってみれば良い。存分に国家の存在しない状態を堪能できるだろう。
こういった国家(正確には政府機構)、民族、宗教不要論が実現した具体例。こういう具体例をサヨクに示しても、サヨクはなんら認識もせず考えもせず自分のファンタジーを保持し続けるだろう。
一般にサヨクの論法は、言葉遊びで始まり言葉遊びの結論になだれ込む空虚なものが多い。「テンノーセーはミンシュシュギに反するのでダメ」みたいなヤツだ。ここには「旧ソ連、共産支那、ポルポトカンボジア、北朝鮮、サダムフセインイラクなど非君主国における民主主義の現状」とか、「日本、イギリス、北欧、オーストラリア、カナダなど君主国における民主主義の現状」などと言う具体例の考察が全くない。
具体例に思考停止し、また都合のいい具体例のみに着目し、言葉遊びで思い込みの結論になだれ込むのがサヨクだ。
なぜサヨクにはそこまで不誠実で無責任な言い草が可能なのか。例えば実社会の会議などで「その企画はミンシュシュギに反するのでダメ」などという妄言を発する阿呆はいない。(サヨク組合に支配された職員会議などは別。)
それは、そもそもサヨクに限らず人間とは自分の不利益にならないのであるなら、時にどこまでも身勝手に無責任に不誠実になりうるからだと考える。
実社会の会議などで「その企画はミンシュシュギに反するのでダメ」など具体例の欠如した妄言を発すれば、その人間の能力、見識を疑われる。愚行を行うほどその人間の評価を著しく下げ、その結果あらゆる不利益がその人間にもたらされる。よって、世間一般の社会人は愚行を慎む。
しかしサヨクがいかに妄言を発したところでサヨク自身にはなんら不利益はもたらされない。いかに文化大革命を賛美したところで、その暴虐の犠牲となるのは支那人チベット人満州人などであり、サヨク自身は何一つ損害を受けない。サヨクが「ナンキンダイギャクサツ」などを捏造流布したところで、その犠牲となるのは日本軍兵士の方々であり、流布したサヨク自身は何一つ不利益を受けない。
だから、サヨクは無責任で不誠実な妄言の繰り返しが可能なのだ。性善説をうそぶくサヨクは、性悪説を裏付ける最もわかりやすい具体例なのだ。
更に絶望的なことに、サヨクが妄言を吐くほどサヨクはむしろ得をする場合すらある。サヨクマスコミが支那政府のおべちゃらに終始し拡声器となればなるほど、支那政府の覚えめでたくなり、支那の首相によるインタビューを独占できたりする。
支那特派員放逐を恫喝ネタに用いる支那の日本マスコミ統制は完全に成功している。国営放送をも含め日本のほとんどのマスコミが支那政府の拡声器となっている。
日本マスコミが支那に脅されヘロヘロに媚びる一方、外国マスコミは毅然とした対応をしてきた。支那はあらゆる外国に同様の言論弾圧的な恫喝を行ってきたにもかかわらず。
天安門事件のおり、日本のマスコミは支那政府のお達しに従いホテルに引きこもっていたという。こういうクズマスコミばかりなら、天安門事件は世界の目にさらされることは無かっただろう。幸いにして日本の支那提灯マスコミとは異なり、報道者としての責任感と誇りのある外国記者がいたため、天安門事件は世界の目にさらされる結果となった。
サヨクの妄言を防ぐ方法は簡単だ。要するにサヨクが妄言を吐くほどサヨクが損をし不利益をこうむるようになればいいわけだ。
筆者が徹底したサヨク批判の重要性を訴える理由がこれだ。