江戸時代、めくらは金貸しを行う特権があったという。金貸しという社会の必要悪的な業種をめくらだけに認めることで、めくらが暮らしていくことができるようにし、また金貸しが無用に増える事を防止したのだろう。
優れた制度だと思う。いくぶんかの必要悪を認めながらも増え過ぎることを抑止し、さらにかたわに自助をうながす制度だ。
筆者はからわのみに認める業種を政府が選定し、健常者がその業種につくことを税制などで制限するべきだと考える。当然これは憲法に抵触するが憲法側を破棄するか無視するかするべきだ。
原則的に重度のかたわのみに認めるべき業種は以下だ。仮にこれをかたわ占有業種と命名。
乞食、あんま、占い師、金貸し、賭場開帳、売春斡旋。
また、かたわに優先的に権利を与えるべき業種は以下だ。
音楽教師、大道芸人。
かたわには、占い師や大道芸をやるにあたっての駅前一等地の道路使用許可を優先的に与えればいい。また、五体満足がかたわ占有業種をしたい場合、高額のかたわ福祉を目的とした税を課せばいい。
めくらは占い師やあんま、手無しや足無しは大道芸でかせぐ。そうやって金をかせいだ後は、金貸しをやったり、賭場を開くといい。もちろん、通常の企業をしてもいい。
こうなれば、かたわも自ら働いて生きることができる。
こう書くと全く働けない重度のかたわはどうするんだという意見もあろう。働けないかたわに乞食を行う権利を政府は与えるべきだ。こう書くと筆者をとんでもない奴だと思う人も多いだろう。しかし税の補助を受けるかたわは既に乞食である。公的組織が徴税を行い支給するという手順をふんでいるに過ぎない。
政府が媒介する福祉には無駄が生じる。
最近、巨大な赤字福利厚生施設など厚生労働省による無駄を批判するニュースがあったが、大なり小なり公的組織が媒介する福祉には無駄が生じる。例えば従来のように公的組織が金をかたわに支給する福祉には、徴税、金の管理、支給相手の選定審査、そういう人員の管理、施設の管理などに金を要する。支払った税金がかたわに届くまでに多くのロスが生じる。
しかしかたわが路上で乞食となって「給付者」から直接金を受け取る方式にすれば、いかなる無駄もない。「給付者」が支払った全ての金がかたわに渡る。
筆者には、支給者特に相手の見えない政府とか自治体から金を受け取って暮らすだけの生活が、本人にとっての幸せなこととはとうてい思えない。税を受け取るだけでは、社会的な意義もない。
しかし支給する相手の見える乞食には社会的な意義がある。乞食は、施す者の優越感を満たし善行を行ったと思わせ自己満足をさせる役に立つ。イスラムには乞食に施すことは善行だという教えがあり、乞食は人々に善行を行わさせる存在であるがゆえ意義深い存在という教えがあるらしい。
また、「施す者の優越感を満たす」という役に立ち方を哀れみ嫌悪する者もあろうが、哀れむべきでない。例えばお笑い芸人は、観客に優越感を持たせるために舞台の上で愚行を演じる。「笑われる」という生業を否定してしまったら、多くのお笑い芸人は否定するべきものとなってしまう。
そもそも人と接するというのは楽しいものだ。「おありがとうござい」と頭を下げると、同情親愛蔑視無視嘲笑好奇の目など様々なリアクションが返るだろう。もちろん中にはホームレスを嬲り殺して楽しむ中学生など、とんでもない糞野郎がいて、そういう糞野郎の対処に工夫をさせられる場合もあるだろうが。
実に臭いセリフで恐縮だが、人は人の役に立つこと、人から頼られ求められることで幸せを感じる。自らが役立たないと思った時、人はおおいに落胆し生きる気力を失う。
生まれながらに美人金持ち頭脳明晰スポーツ万能血筋は高貴という人もいれば、醜男貧者愚鈍虚弱血筋は卑しいという者もあろう。前者は妬みそねみの嵐に耐え、またそういう嵐の洗礼を受け恵まれない者への引け目を持たさせられ左翼に退化しかねない重圧を受けて生きねばならない。後者はあざけりや同情を受けて生きねばならない。しかし受け入れるしかない。また人は受け入れることができる。
筆者の知っている営業マンにずんぐりむっくりのロンパリ中年醜男がいる。ただこの男は年収は1千万をはるかに越す。かつて幼少期にあざ笑われたであろう自らの風体を利用し、相手を油断させみくびらせ親しみを持たせることで、経済的に成功しているわけだ。
この営業マン同様に、かたわが、かたわの肉体そのものを使って笑いや賞賛を取るだけの力、つまり金を得る力を備えた時、そのかたわの肉体は利益をもたらす個性となるのだ。