国体創造 - 4 様々な提言

4.1 完全な自己責任にもとずく自由を民衆にもたらせ

[執筆日:H13/3/27]
あなたは28524人目の国体創造者です

1 「(公的な存在)がワルイ」とは、「(公的な存在)の権力を増大せよ」という主張のこと

 権力には責任が伴う。と同時に責任にもまた権力が伴う。責任だけ課して権力を与えないという状態などありえない。公的な存在の責任を追及すればするほど、公的な存在に権力が集中する。日本にはそういう形で公的な存在に権力が集中したケースが多すぎる。
 公的な存在に責任を押し付けることにより、公的な存在からの異常な統制がもたらされる結果になった事例を以下に列挙する。

事例1:膨大な学校校則

 ○事件が発生→学校が悪いと騒ぐ者出現→学校が○を予防するための学生管理統制を強化。
 ↑こういう顛末が多すぎる。
 筆者は学校外において発生した学生による事件に、学校はいかなる責任をとる必要も無いと考える。学生が学校外で寄り道をしようが単車に乗ろうが盗もうが売春をしようが恐喝をしようが、学校は全く責任をとる必要など無い。法にふれる行為ならそれは警察が取り締まるべきことだ。ということは、すなわち学校は学校外における生徒の行動についていかなる統制を加えてはならないということでもある。教師としてというより大人としての忠告程度ならいいだろうが。
 学校外の事柄にまで学校教師に責任を負わせるのは無茶である。学校外における学生の行動にまで責任を負えという意見は、教師は放課後まで24時間働けと言っているのと同じである。
 もちろん学校内は別である。学校内で発生する事柄の全責任は学校がとるべきだ。学校内で学生がいじめで傷害を受ければ、学校は業務上過失傷害の罪に問われるべきであり、学生が死ねば学校は業務上過失致死の罪に問われるべきだ。(教師が指導で学生を殴る場合は、業務上過失傷害にならないように流血なしに殴る能力は求めたい。)ということは、それを防ぐ学生に対する管理統制を行うべきだということだ。
 微妙なのは学校内で生じた要因から学校外で事件が起きたケースであろう。要因が学校内にあるのならそれなりの罪になるべきだ。

 公立学校の制服などやめたらどうか。
 黒詰襟セーラー服に文化的な意味が全く無い。女学生が何で水夫の服を着なきゃならんのだ?単に学生の個性を奪い学校や郷土の個性すら奪っているだけだ。学校とは文化教養を育む場所だ。文化的な意味の無い行為を学生にさせることに、いかなる教育的な意味も無い。
 郷土や学校の文化的背景にもとづく制服ならまあいいだろう。例えば前身が農学校である学校の制服が農作業衣をかっこよくアレンジしたものにするなど。文化的な意味があり、他の学校との差別化が図れればいい。
 日本以外世界のほとんどの国では学生制服など存在しないのだ。あるとするなら宗教学校や士官学校だ。神学校で神職の服装を着させるとか、幼年兵に軍服を着せるなど。つまりは文化的背景に根ざした服装だ。
 自由な服を認めると、高価な服を着る者が出て安価な服を着る者が可愛そうなどと主張する人間もいる。金持ちご近所を妬む奥様レベルのさもしすぎる発想だ。教室に様々な値段の服を着る人間がいれば、「(高価な服を着ている云々などと)他人妬むあさましい人間になるな」「(安価な服を着ている云々などと)他人蔑むあさましい人間になるな」「人間に重要なのは内容だ」と教える絶好の機会となるはずだ。
 公立学校では普段は私服を認め、卒業式など公式の場所では郷土や学校の文化的背景にもとずく制服を着させてけじめをつける。というやり方が最も合理的で望ましいように思う。

事例2:鉄道会社の轟音拡声器

 何でもカンでも鉄道会社のせいにするヤツがいる。酔漢が線路に落下して死亡すると、「鉄道会社が悪い」とぬけぬけとほざくヤツ。落ちたやつが悪いのだ。線路に落ちれば危険なのは、あたりまえだろう。泥酔者になってプラットホームに出現すること自体が無謀なのだ。というかそもそも泥酔して路上を歩くな。みっともない。
 鉄道会社のせいにする阿呆のおかげで鉄道会社は「○番線に電車が参ります。ets..」と大音量で何度も何度も不快な音楽付き騒ぎ立てるところに、更に「駆け込み乗車云々」とまで喚きたてる結果となった。こっちが参ってしまう。

 こういうキチガイじみた駅の拡声器騒音は、世界広しといえども日本にしかない。世界のほとんどの国では拡声器放送どころか発車ベルすらなしに列車は出て行く。そして列車内拡声器による到着駅の放送などなく、自分の降りるべき駅を自分で認識して降りるのだ。

 マイクを握ると人は権力を握ったかのような錯覚にかられる。多くの人間を自分の音声の影響下に置くことになるからだ。
 擬似権力愛好鉄道員と何でもカンでも鉄道会社のせいにする阿呆のおかげで、日本全国の駅や列車内に拡声器騒音がうめ尽くされた。

 こういう鉄道の拡声器騒音をやめろという主張に対して「めくらはどうするんだ」という反論があろう。
 拡声器騒音を流したところで、めくらが駅構内を歩行し目的の駅に到達できるようにはならない。それは読者氏が、目隠しをして拡声器騒音のみをたよりに目的の駅にまで到達できるかどうかを考えてみればいい。弱視には黄色い案内板をプラットホームに埋めるべきであり、全盲には駅員が手を引いてやるべきなのだ。

事例3:公営プール小姑監視員

 公営プールでは、飛び込み禁止潜水禁止など馬鹿げた規則を定め小姑じみた監視員をおいて泳ぎのあら捜しをさせる。定期的な「休憩時間」なるものが存在し、本人の泳ぎ始めた時間や体調と無関係に休憩を強いられる。こういうイジワル小姑じみた杓子定規な統制は、全て民間プールには存在しない。
 こういう筆者の言い草に対して「事故がおきればどうするんだ。」というセリフが返るだろう。コレに対する筆者の返事はこうだ。「どうもこうもない。虚弱であったり泳ぎが不得手であったり無理な潜水をしたり準備運動の不足などにより、溺れて死ねばそいつが馬鹿なんだ。プール屋にいかなる責任も無い。死体の処理代とプールの清掃代その他を遺族に請求すればいい。」
 もちろん全て放置しろとは言わない。例えば、「人のいる場所への飛び込み」、「著しく不潔な体で泳ごうとする」、「他人を殴る」、「機関銃を乱射する」、「プールで大便をする」などは制止するべきだ。要するにはた迷惑な行為だ。普通の常識人ならだれでも守れることだろうし、これすら守れないヤツは泳がせる必要は無い。
 また溺れているヤツを救助する監視員を置いてもいいだろう。ただし救助の遅れから死亡したところで、それは本人の責任だ。監視員になんら責任は無いし、事故を予防する義務も権利もない。
 ただし水質の悪さから泳者が病気になったり、ガラスの破片などが沈んでいたりして泳者が怪我をしたりしたなら、それは間違いなくプール側の責任だ。

 とは言うものの、いずれにせよ事故が起きれば安直のプールの責任にする馬鹿が出るんだろうなあ。そしてそれが小姑監視員が無意味な規則を大量に作って活躍しつづける根拠を与えるんだよなあ。

2 「過労死」訴訟が育む会社による社員管理統制

 最近「過労死」なる言葉が造られ、社員の病死について職場の責任者に賠償責任が生じるケースが続発している。ろくでもない話だ。
 「『過労死』を認め職場責任者に賠償責任を課すこと」とは、「職場責任者は社員の健康管理を行う責務を負うこと」であり、更に言い換えると「職場責任者は社員の健康管理を行う権力をもつ」ということであり「職場責任者は社員の健康状態や身体に関わる情報を知る権力、健康管理を根拠とした命令を行う権力をもつ」ということである。
 「『過労死』を認め職場責任者に賠償責任を課すべきだ」という意見は、「職場責任者は、社員の身体に関わる私的情報を知る権力をもち(つまり社員は職場責任者に私的な身体情報を申告する責務をおい)、職場責任者は社員に対して健康管理に関わる命令を行う権力をもつべきだ」という意見に他ならない。
 社員の私的な身体情報を把握する権力、その情報にもとずいて命令をする権力があってはじめて社員の健康管理を行うことができる。身体情報を把握させずにおきながら健康管理(つまり「過労死」を予見し防ぐこと)を行えなどというのは無茶だ。

 「過労死」なるものを認め病死を公的な存在の責任にする傾向を「労働者の勝利」的な発想で喜ぶ連中。そういう連中は責任と権力が表裏一体であることを理解していないのかも知れない。
 あるいは理解しているからこそ行っているのか。職場責任者の社員に対する権力増大を目指しているのかも知れない。職場責任者を身体情報など社員の私的情報を知りえる立場にし、健康に関わる社員の私的な活動をも制限できるようにすることが目的なのか。
 会社が検尿検便血液検査ギョウチュウ検査脈拍血圧測定身長体重測定や運動能力測定を定期的に行い、社員の健康管理を行う。「過労死」を防ぐために。当然会社はその測定結果を人事にも用いるだろう。そして時にこのままでは「過労死」すると判断された場合は、配置転換されたり解雇されたりするようになるだろう。
 就業時間後であっても酒量が制限され喫煙が禁止されカロリー制限がされ各種栄養摂取量を指標範囲内とするように義務付けられ、食べた内容を申告することも義務づけられる。運動不足解消のためエレベータの使用も制限される。「過労死」を防ぐために。

 筆者は健康管理ほど自己責任で行うべき事柄は無いとすら考える。

3 法は、はた迷惑な行為を取り締まれ。個人の生き様を統制するな

 人には破滅する自由がある。
 賭け事に狂って破産する自由。不健康な生活で命を縮める自由。こういった自由は極めて重要な自由だ。「破滅すれば周りの人に迷惑をかけるので破滅するべきでない。」という主張は、正しいが無意味な奇麗事だ。自分が何一つはた迷惑な行為をしていないなどと思い込んだ思い上がった人間の言い草だろう。こういう言い草をする権利があるのは、当人の破滅に直接生活レベルの影響を受ける存在、例えば家族親族程度だろう。

 現行以下のような公的な統制がある。個人の生き様を統制するものであり、やめるべきだ。

イ:生殖器など猥褻図画の販売や所持
ロ:高速道路における単車の二人乗り
ハ:ヘルメット着用義務
ニ:シートベルト着用義務

 なぜ上記の統制禁止やめるべきか。個人の生き様の範疇であり、その行為の結果直接不利益を受けるのは本人だからだ。シートベルトをせずに死亡したところで、それは本人の選択の結果だ。頭部の保護より自分の髪型を重視する生き様をする単車乗りいてもいいのだ。
 逆に以下は統制し禁止するべきものだ。

A:強姦、盗撮行為。盗撮した図画の販売。
B:著しい速度違反。暴走行為。不法改造による騒音。
C:焼芋屋やサオダケ屋などの拡声器騒音。

 なぜ禁止するべきなのか。簡単だ。はた迷惑だからだ。

 しかし官憲は、さしてはた迷惑ではない行為を取り締まり、迷惑千番な行為を放置する傾向にある。官憲は以下のような迷惑極まりない行為には極めて寛大だ。

α:焼芋屋やサオダケ屋などの拡声器騒音
β:暴走行為
γ:北朝鮮への不法な送金

 逆に以下のようなはた迷惑とは言い切れない全く無意味な取締りには恐るべき情熱を発揮する。

1:がら空き道路での駐車違反取締りとレッカー移動
2:がら空き直線道路での速度違反狩り
3:法定速度を守って走ると逆に危険な道路での原動機付き自転車速度違反狩り
4:シートベルト違反者狩り

 もちろん、法的な不備にも起因するため一概に官憲のみを責めるのは間違いだが。
 膨大な金額の反則金が一体何に使われるのか。警察の天下り公社や外郭団体に流れているかどうかは、筆者は知らないが。

 ちなみに筆者が自動車に乗るときはシートベルトをつける。そのほうが安全だからだ。要するに統制するなということだ。

 結局交通事故死亡者を自爆とそうでないものに分けるべきなのだろう。「自爆事故についてはいくら増えようが警察は何一つ責任はない。はた迷惑な巻き込み交通事故については取り締まりの責任がある。」という前提に立つべきなのだろう。
 従来のように単純に交通事故の死者数増加を警察の問題であるかのように論じるのなら、交通警察はますます交通取り締まりを強化するのみである。
 仮にハ、ニあたりを適法化すればおそらくは事故死者は増えるだろう。筆者は増えてよいと考えている。本人が好き好んで行った選択の結果だからだ。

 要するにはた迷惑な行為を取り締まればいいのだ。

4 公的な存在に責任を転嫁してハンタイセー気分の馬鹿マスコミ

 安直に公的な存在に責任を転嫁する阿呆とは、要するに主にマスコミである。一般人にはそんな馬鹿はほとんどいない。そんなヤツは、マスコミ以外にはごく一部のマスコミのくぐつとなる阿呆のみだ。
 さあ、テレビニュースショーやドキュメンタリーを見てみたまえ。今日も↓こういうセリフが目白押しだ。

 日本ではこの問題への対策が全く進んでいないのが実情です。
 (公的な存在)による対策が望まれます。
 これに対して(公的な存在)は全く対処してきませんでした。
 いつもながら行政側の対策は後手後手に回っているのが実情です。

 これらは全て公的な存在の権力増大を結果的にもたらす言い草なのだ。「その問題」に介入し干渉する権力の増大をもたらす言い草。話している本人は単なるハンタイセー気分に浸るのみで、なんら自覚していないだろうが。
 これの繰り返しがもたらしたものが、中央集権であり行政の肥大であり税金の浪費であり膨大な赤字国債なのだ。

余談:自由とは選択できることであり選択の結果に責任を負うこと[執筆日:H16/5/3]

 本ページでの「兵役か高額納税かを選べるようにせよ。」との提起に対して、「軍隊と高額納税のなかでジレンマに葛藤する人が増加し、政治不信となる」という批判があった。自由の意味を理解していないのだろう。
 今現在日本国民は「兵役か高額納税かを選べない」状態にある。国民に国防の自由は無く、国民に選択の余地は無い。アメリカ製憲法により国防のできないアメリカの軍事植民地としての分岐のない一本道のみが続いている。

 これと同じ状態がある。奴隷だ。
 かつてアメリカの黒人奴隷はいつに何を食べ何をし何を信じ何を着て暮らすべきかを、全て主人が考えてくれ、寝床も食べ物も女も全部用意してくれた。いささかもジレンマに悩むことは無い。いつ死ぬべきかという命題にすら思い悩む必要は無い。持ち主が無用と判断すれば処分するだけのことだ。BSEに感染したニワトリのように。(奴隷とは人間家畜のことである。)
 しかし奴隷解放により、黒人は自ら思考し働き自分の処遇をあれこれ悩むジレンマに襲われる結果となった。白人は突如何もしてくれなくなった。自分で自分の向いている仕事を考え自分で探し、自分の住む場所や食べるものや自分の着る衣服や宗教を自分で探し選ぶ必要が生じた。これが自由である。自らの処遇を自らで判断しその結果を自らが受ける責務を果たすことのできる状態を自由という。

 奴隷制の是非を論じるにあたって「黒人を自由にすれば様々な自由がもたらすジレンマに葛藤する黒人が増加し、政治不信となる」とし、奴隷制継続を主張する者がいるとするなら、それはとんでもない人種差別主義者だろう。こういう言い草は、「黒人は自らの処遇を自らで判断する能力の無い劣等人種」という前提に立ってこそ、吐くことができる。
 同様に「軍隊と高額納税のなかでジレンマに葛藤する人が増加し、政治不信となる」という言い草は、「日本人は自らの処遇を自らで判断する能力の無い劣等人種」という、実質的に我は人種差別主義者なりという自白をしてこそ、吐くことができるのだ。
 ただ言うまでもなく現憲法をふくむ戦後体制、戦後教育の目的は「日本人を軍務や高額納税などを選ぶジレンマに耐えられない腑抜けにすること」にある。ようするにそれは奴隷化である。
 国家への責務と自由の関連性を理解できない腑抜け。餓鬼のように自分自身の「平和」だけに執着し、自分の「平和」のためには拉致被害者も北方領土から疎開させれている人々も沖縄で強姦される女学生にも徹底して冷酷にないがしろにできる腑抜け。アメリカ占領軍が投げ与える餌(平和)チョコレートをひたすらがつがつ貪る豚。アメリカ占領軍が与える「平和」という餌にために、あらゆる自由と尊厳を投げ捨てることのできる豚。その典型例が「ジレンマ耐えられない」論者だろう。こういう豚は自由がもたらすジレンマに勝手に苦しめばよい。

 我々日本国民は、アメリカの軍事植民地支配(国家的奴隷状態)から脱却を目指すのであるなら、自らを自らで守るために国民はもっともっと葛藤する以外にない。(アメリカによる支配からの)自由を求めるのなら、自由がもたらす恐るべきジレンマに悩まねばならない。
 国民が軍務か納税かを選ぶ悩みの果てにこそ、国の独立があり真の自由郷があるのだ。


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