読者諸氏は、こういう人間を好きだろうか。
@ 自分が好かれているか嫌われているか(他人からの評価)をやたら気にするヤツ。
@ 逆に悪評判にならなければ何でもするヤツ。
@ つまり他人による自分の評価に必要以上に聞き耳を立ててうろたえるヤツ。
こんなヤツが尊敬を得ることはない。ひたすら軽蔑されるのみだ。では、尊敬を得る人間とはどういう人間か。
@ 確固とした常識観を持ち、浮ついた他人の評判などに動じないヤツ。
@ 自分が正しいと思ったことを貫徹するヤツ。
@ 他人の言動に騒がずうろたえず、言わせておけと寛容なヤツ。
他人の評判を気にして他人の意見の盲従などを繰り返しても、何一つ尊敬などされない。確固たる盤石の常識感をもち、その人間の内面を磨いていけばおのずと尊敬される。
日本のいう国もまた同様だ。言いたい支那には言わせておけ。
日本のどのような内面を磨くべきか。それは人が畏敬する人とはどんな人かを考えればいいい。それは例えば↓こういう人だ。
@ 能力のあるヤツ。
@ 金のあるヤツ。
@ ケンカの強いヤツ。
@ 美しいヤツ。
@ 文化的な教養のあるヤツ。
日本という国もまた同様の内面を磨けばいい。
軍事力である。肉体を精悍に鍛え上げる行為は、内面をも精悍にする。直接戦争を行わなくとも、責任をもって軍備を整え国民が訓練を積むめば国柄自体が精悍になり、諸外国に畏敬される国となる。武道を身につければ、ケンカなどしなくともおのずと威風が滲み出るように。軍備と言う筋肉を身につけ、軍事技術という武道を心得る。これで間違いなく日本政府自体が精悍な外交を行うようになる。韓国など強国に従う体質の国は今も多いのだ。
これは既に到達している。
これも多くの面で既に身につけている。更に深く多様に身につけるべきだ。特に航空宇宙技術など。
国の美しさとは何か。様々あろうが具体的に目にする町並みこそが、最も分かりやすく来訪者にその地域や国の美しさを表現する。
残念ながら日本の町は実に薄汚い。いざりへの嫌がらせ効果抜群の歩道橋、都会のど真ん中に立ち並ぶ電信柱および電線、常に宣伝騒音を響かせる街頭拡声器、雑然としたビルに狭い道。こんな薄みっともないシロモノは全て先進国には存在しない。
自動車優先の産物である歩道橋をほとんど撤去し、災害時など以外街頭拡声器放送を禁止し、電線を地下に埋め電信柱を撤去し、地主のゴネ得既得権を制限する。これだけで我が国は先進国程度に美しくなれるのだ。
ヨーロッパは国の貧富に関わりなく町並みは美しい。ヨーロッパでは数階建ての建造物の町並みの歴史が長い。高層建築文化が成熟しているのだ。成熟した高層建築文化を当てはめた都市計画や再開発を行うことで整然とした都市作りが行われている。
一方アジアでは国の貧富に関わりなく町並みが薄汚い。薄汚い町並みはアジアの町一般の特徴だ。ビルディングの街を作る歴史が浅く、ビルディング文化の成熟度が浅いのだ。そのため雑然と薄汚くなる。
日本は町並みにおいて先進国程度に美しくなる必要がある。伝統的な建造物や様式を町並みに取り入れて。
国体レベルでは皇室など桁外れに至高の文化が存在するが、民間レベルの文化ははなはだ心もとない。
ほとんどの日本国民に伝統的な文化が身についていない。教育自体が明治維新と占領の残滓の固まりであるがゆえに。明治維新においては、江戸時代以前の文化は全て悪しき陋習とされ駆逐された。更に占領政策にいたっては、根本的なまでに日本の文化は教育から除外された。
例えば音楽。学校で行われる音楽の授業とは、おおむね西欧音楽を聴き西欧楽器を演奏し西欧の歌を歌い西欧の楽譜を学ぶものだ。地元の民謡すら教えられず、ボルガの舟歌とかロシアの民謡を学ぶ奇怪さ。
筆者などは音楽とか美術とか工作の授業などやめて、郷土芸能の時間を設けば良いと思う。伝統的な神事、踊り、民謡、工芸、演劇、武術などを学校で学ぶのだ。郷土芸能の名人を雇って。今、多くの郷土芸能が葬られつつあり是非行うべきだと思う。更に高学年になるとそれらの背景も学ばさせると良い。
というか、学校そのものが郷土文化の保守継承を行う総合郷土文化施設になるべきだと考える。子供のみならず郷土の人間が参加できる施設に。年中がら空きの巨大ホールやら、西欧の二流美術品を集めて喜ぶ美術館やらはいらない。
ひたすら外国人の格好をし、ひたすら外国人の口まねをし、ひたすら外国の歌を歌い、ひたすら外国人の髪型をし、ひたすら外国語を身につけようと奔走する人間。カッコ悪いにも程がある。こんな空虚な阿呆は十分に増えた。
明治維新前にアメリカに渡航た日本の使節団。サンブランシスコの町中を、ちょんまげ羽織袴で格式ある大名行列をした。サンフランシスコの人々を圧倒し、おまけにかなりモテたと言う。う、うらやましい。それはなぜか。祖国の文化に誇りを持って堂々と外国を練り歩いたからだ。そして何より使節団たる武士というものが、無礼者を一刀両断にしあるいは割腹する覚悟のある高い誇りをもつ教養人だったからだ。でかい身体の外国人(当時の身長差は今以上である)を前にして「ナメんなよ」とガンくれる覚悟があったのだ。要は威風堂々としてセクシーでカッコいいのである。
仮に使節団がイソイソ外国の服に着替え外国の髪型に直し、外国の風習の猿まねにヘコヘコいそしんだのみなら、おそらくはモテなかったろう。全くセクシーではない。使節団が、ひたすら外国様のお気に召すよう笑われぬように配慮するのみの体たらくだったのなら、日本人は単なる存在感ナシの支那風のチビといった程度の評価にしかならなかったろう。戦後日本人じみて、実に卑屈でカッコ悪い。
つまりは伝統を重んじ誇りを持って威風堂々として内面を磨けば、おのずと尊敬を得るということだ。ヘコヘコ外国のご意見お怒りご鞭撻にうろたえたところで、ひたすら有害無益だ。
他人が発する評価を単純に真に受けるのは阿呆だ。人には打算、おもねり、妬みなどがある。国もまた同様だ。<悪い評価をした→悪いと思っている>、<良い評価をした→良いと思っている>などと考えるならマヌケ極まりない。
外国のお怒りご懸念にうろたえるな。外国から好かれようなどとコビるな。外国の評価に聞き耳を立てて右往左往するな。みっともない。
畏敬されるようにしろ。内面を磨いて。サヨクの言う「ハンセーするユーキがあるからソンケーされる」などという汚物思考ではない方策で。
必要以上に評価を気に病む者は、たいした評価を得ないものなのだ。