国体創造 - 1 平成新憲法私案

1.5 多くの憲法論議について

 世間で提起されている多くの憲法論や憲法への取り組みについて考察する。

1 憲法論議を怠る国会議員は、自分の怠慢を国民の責任にすりかえるな

 改憲が党是である自民党は、改憲に今一つ及び腰だ。言うまでもなく党内に護憲臭い人間がいるという政治力学の結果にすぎない。および腰である言い訳が、「国民の幅広い議論」とか「国民の改憲に向けた意志の成熟」という言い回しだ。これらが十分でない事を理由に、自民党は改憲に足踏みしている。
 こういう言い草は代議士として考え違いもはなはだしい言い草だ。自分たちの怠慢を国民の責任にすりかえるな。

 そもそも憲法などは、「国民の幅広い議論」とか「国民の改憲に向けた意志の成熟」の対象になどならない。国民生活に直接関係がないからだ。そもそも憲法とは言葉遊びの政治理念を練り固めたものに過ぎない。そんなものは、多くの国民にとってどうでもいいのだ。国民一般が憲法論議を行わないことを理由に、憲法改正を行わないのであるなら改憲は永久に不可能だ。
 筆者にとってもそうだが、くだらない政治理念などさして興味はない。筆者は「左翼がサヨクにさよく時」というページを立ち上げており政治理念にふれている部分もあるが、これは政治理念に興味があるからではない。空念仏の政治理念でアタマがヒートして具体的な国民の利益を省みなくなったトンチキに興味があり、かつ批判しているに過ぎない。
 多くの国民にとってインパクトがあるのは、税体系など直接利害に関わりのある事柄だ。こういう国民を「セージイシキの低いナゲカワシイ国民」などと規定してはならない。むしろこれが普通なのだ。

 我々国民は忙しい。我々国民にいちいち憲法論議のようなくだらない政治理念の言葉遊びなんかをやらせようとするな。また、国民が行わない事を怠慢の理由にするな。
 忙しい我々国民にかわってそういった論議をやらせるために我々は国政の代議士(国会議員)を選び、給料を支払っている。代議士とは、国民に代わって議場などで議論をする人間の事だ。その代議士が、国民に議論をあずけてどうする。代議士は、自分に国民に代わって議論をする能力があると思ったからこそ立候補したのだろう。それができないのなら、代議士などやめろ。
 憲法論議など、くだらない政治理念の議論こそ政治家が行うべきなのだ。国民は憲法論など馬鹿な政治理念の言葉遊びなどしているヒマはない。納税するだけで手いっぱいだ。
 そんなことを好き好んで時間を割いて行う馬鹿は、筆者のように政治に特に興味をもつ人間だけだし、それでいい。日本は支那や北朝鮮みたいに、国民全員が政治に関心をもつことを強要される社会体制ではない。

 国会議員は憲法改正、憲法論議に怠慢である理由を国民の責任にすりかえるな。それは国会議員の仕事だ。

2 「国民主権、平和主義、基本的人権」なる概念のいかがわしさ

 昨今、改憲論議がさかんだ。しかし、その改憲論の中には「現憲法の国民主権、平和主義、基本的人権を引き継ぐ。」という言い草がある。いかがわしい言い草だ。
 それぞれを以下に記し批判する。

(1)「国民主権」という概念の嘘

 「国民主権」なる概念と逆とされる概念が、「天皇主権」である。この両者を対立要素として提起すること自体が嘘なのである。読売私案にある発想などはこれの典型的なものだ。読売私案にあるように、大々的に「国民主権」などと第一条に記すなど実に馬鹿げている。

 実質的に「国民主権」なるものとの対立要素として存在するのは「官僚主権」である。抑止されるべきなのは、戦前の一部軍人や、現在の日教組のような民意無視妨害官僚の暴走である。
 江戸時代から続くこういった官僚主権体質は、憲法上で抑止されるべきだ。民主制を前提とした社会体制を支持するのであるなら。
 民主党もおうおうに官僚主権を批判する。この批判は大筋で正しい。

 くわしくは「平和憲法を守れ」にあるバレバレな嘘にある「余談:『天皇主権←→国民主権』という形で両者を対立要素として提起すること自体が嘘」を参照のこと。

(2)現憲法にあるのは「平和主義」ではなく、植民地主義

 アメリカ占領軍が現在の武力放棄憲法を投下した理由は、別に平和の構築にあるのではない。日本植民地占領状態の永続と、日本をアジアの軍備前線基地とするためだ。
 護憲勢力は、現憲法を「反植民地主義」と呼称して賞賛している。全く逆だ。現憲法は、欧米列強の植民地主義を条文にしたものにすぎない。
 欧米列強の植民地支配とは、被占領民に武力を持たせず愚民化するというものである。武力を持たせれば、宗主国への反乱につながる。現地人に一切武力を持たせないようにして反乱を防ぎ、植民地経営を安定させる。そうやって世界中の植民地を拡大してきた。
 現憲法は単にその植民地支配のマニュアルを条文にしたものにすぎない。現地軍備の解体と植民地支配の永続というマニュアル。この植民地支配マニュアル憲法は、日本植民地占領状態の永続と、日本をアジアのアメリカ前線基地にし、明瞭に成果をあげている。日本国内のサヨク陣営の補佐により。

 逆に旧日本軍は、大東亜戦争当時に、東南アジア諸国に軍備を教え欧米列強と戦う気概を教えた。それが、日本敗戦後、東南アジア諸国における劇的な欧米列強植民地支配からの解放の連鎖につながった。

 「現憲法の平和主義を尊重する」という意見とは、「欧米列強の植民地支配を尊重する」という意見に他ならない。現憲法のうち、まっさきに削除するべきなのが「憲法第九条、植民地主義。日本は陸海空軍の武力をもたず、アメリカ軍事植民地支配を永久にこれを受け入れる。」という条文なのだ。

(3)「基本的人権の尊重」を肥大化する空虚なケンリ豚憲法案

 多くの憲法私案が、おおむね権利条項をできるだけ増やす事に情熱が傾けられている。憲法上にできるだけ沢山のケンリを記述し、そのケンリの量が多い事をもって、ナニかステキなリソーを目指しているかのように錯覚して悦に浸るシロモノだ。
 ひたすら国民のケンリを記述する憲法。そこに見えるのは、公的な存在に対して、与えよ、与えよ、くれ、くれ、などとよだれを垂らしてひたすら要求する欲豚国民像だ。まっぴらごめんである。
 立派な人間とは公的な存在に対して自らの責務、義務を果たす存在だ。そういう国民は多い。むしろ、ほとんどの国民がそうである。我々国民を欲豚扱いするべきでない。

 現憲法の問題点の一つは、本来表裏一体であるべき権利と義務のうち、権利の比重が大きすぎるという点だ。その欲豚ぶりを大きくしてどうする。

 ただ、こういう権利ばら撒き憲法案を示して、国民の間で改憲気運を盛り上げる戦略であるなら肯定する。

 当然改憲は必要だが、現憲法の腐った部分を継承するものであってはならない。

3 今一つ賛成できない首相公選制

 筆者は首相公選制には懐疑的だ。

 首相公選制により、長島茂男氏、貴ノ花関、野茂ひでお氏、中田ひでゆき氏、山口百恵氏、あむろなみえ氏などが総理大臣になる可能性もおおいにある。一時のマドンナブームの時なら土井タカ子氏が首相に当選した可能性もある。大阪府知事・横山ノック←これは冗談ではなく、面白すぎる現実なのだ。
 とはいえ首相公選制には、総理大臣が国会の拘束から大幅に解放されるという利点があることは認める。また石原慎太郎氏を選んだのも国民(東京都民)であり、必ずしもトンデモのみが当選するとは考えない。ビートたけし氏のように政治に深い洞察のある芸能人もいる。
 国民(大阪府民)は横山ノック氏に、二位の倍以上二百万以上の票を与えて当選させた。つまり、有権者なるものがいかにトンデモかということを有権者自ら実証してしまった。
 この有権者自ら示した実例は、首相公選制に疑問を抱かせるに十分な実例である。内閣総理大臣・植木等を生み出しかねないという。

4 無意味な道洲制

 民主党などからは、道洲制が提起されている。全く無意味な発想である。道洲制をしく必要性が無い。
 以下に道洲制を必要とする根拠と、それぞれがなぜ間違っているのかを列記する。

道洲制必要論の根拠一:小さい政府のほうが、国民一人一人により木目細かな政治ができる。

 根拠が結論(道州制)につながらない。
 もちろん地方分権の目的は、地方国民一人一人の需要に対し、より木目細かに対応することにある。
 しかし、道洲制では全くそれを実現しない。現在の一億一千万国民の政府と、道洲制における数千万洲民の政府と比較したところで、木目細かさなど五十歩百歩だからだ。
 むしろ筆者のように日本を藩という文化領域別に三百程度に分けるほうが、より木目細かな政治が可能だ。

道洲制必要論の根拠二:数千万人程度の国家は多く、政府として成り立つので道洲制にするべきだ。

 間違っている。
 成り立つからと言って、無理矢理そのようにする必要性はない。現行一億人政府もまた、戦前は国防独立国家として、戦後は経済大国として成り立った。変える理由が無い。

 そもそも同じ民族が分断される事は望ましくない。極論を言えば韓国北朝鮮のように。好き好んで祖国を分断するなど馬鹿げている。
 分断する必要性があるとするなら、文化の違いがある場合だ。宗教や言語及び民族が異なるなど。例えば支那などは分断するべきだ。チベット、ウイグル、満州などは独立するべきである。
 日本ほど、文化として統制され完成された文化圏はない。日本語を話し、日本の文字を記す日本民族が、米など日本料理を食べ、日本全国神社のある日本列島に暮らす。こういう状況は他国では、ほとんど例を見ない。日本だけである。世界の国家のほとんどが、多宗教多民族が伝統的に入り乱れあった土地に暮らす多言語国家だ。

 それをわざわざ分断するなど、実に馬鹿げている。何一つ分断する必要がない。筆者などは、道洲制とは国体を解体したい人間の謀略であるとすら邪推している。

5 現憲法は既に形骸化している

 支那およびその腰巾着であるサヨクは自衛隊の存在をもって「平和憲法を形骸化するもの」と批判する。実はこの言い草は正しい。まさしく現憲法は形骸化している。

@ 前文
 北朝鮮も支那も米国も「平和を求める諸国民」ではない。
@ 天皇条項
 現に天皇は「総意にもとづく」ことを前提とした存在ではない。「総意」を判定する公的な制度など現在存在しない。「総意」を前提とした条文は憲法上の空論となっている。
@ 政教分離
 与党公明党。
@ 基本的人権
 拉致被害者は生存権など根本的な人権を侵害されながら、政府は二十年以上放置した。外国のご機嫌の前では国民の基本的人権を政府がゴミクズ扱いすることは既にまかり通っており、基本的人権の条文は空文化している。
 また外国人犯罪の数は膨大だが、政府はむしろそれを助長している。例えば在日への押捺押捺を実質とりやめ、朝鮮人による日本人への生存権財産権侵害をやりやすく配慮している。外国、外国人による基本的人権侵害やり放題となっており、基本的人権の条文は完全に空文となっている。
@ 言論の自由
 「日中常駐記者交換に関する覚書(日中記者交換協定)」(参考ページ:TAKA'S Pageの日本の中国報道)が結ばれた瞬間に、この条文は粉々に破壊された。政府が率先して外国政府を批判することを禁じ支那による言論統制を受け入れることとしたわけであり、その瞬間に日本からは言論の自由が公的に消滅した。
@ 九条
@ 私学助成

 ボロボロなまでに形骸化している。明治憲法で既に定義されていた議会制などを除いて既に現憲法はほとんど機能していない。
 なぜ形骸化しているのか。そもそも日本人の伝統と乖離した憲法だからだ。

 民族の伝統をかえりみないイデオロギー過剰な憲法はおうおうに形骸化する。例えば旧ソ連の憲法。旧ソ連では、憲法上で規定されていた言論の自由も集会の自由も全て机上の空論に終わった。それらはロシア人にとって伝統的になじみのないものだからだ。皇帝による専制的な支配こそがロシアの伝統だ。憲法がどうあれロシアは専制政治化する。
 逆に日本では民主制は機能している。もちろんそれも憲法上の規定があるからではない。天照大神が岩戸にお隠れになられた折に神々が話し合われて以来、日本では話し合いの伝統が息づいてきたからだ。(もちろん「話し合いの伝統」が、主権侵害組合役人が民衆の代表者に「話し合い」を強いる政治構造を生み出し、民主制を阻害している面もある。)

 そして民族の伝統をかえりみない憲法を無理に施行し(つまり空想世界を無理やり現実世界にあてはめようとし)た結果が、憲法にあてはまらないもしくはそう誤解された国民のことごとくを殺した支那の文化大革命である。
 サヨクはおうおうに「憲法と実際の政治が乖離しているなら、実際の政治を変えるべき。」と主張するが、それを大まじめに行ったのが支那の文化大革命なのだ。

 読者諸氏の中には、現憲法を廃止したり変えたりすることに病的におびえるようにされた人もいるかも知れない。杞憂だ。現憲法廃止により悪いことなど起こらない。なぜなら既に現憲法は形骸化し既に実質的に廃止された状態に
あるからだ。

6 現憲法の改憲条項に病的な忠義を発揮するサヨクに警戒せよ

 既に「へーワ犬ポーをマモレー」のアジテートはほとんど説得力を持たない。九条改正論は既に国民的合意を得ていると言っていい状態になった。
 そこで護憲派の闘争形態は、九条への病的な忠義から改憲条項への病的な忠義に変わりつつある。実質的に改憲の困難な改憲条項が護憲派の最後の砦だ。

 改憲条項の手続き論を病的に重視する発想は、ガンの摘出にあたって「ガンの意見を聞きべき」という主張のようなものだ。病巣の摘出を論じるのに、病巣の意見を聞く必要などない。ガンは無条件で摘出すればいいのだ。
 確かに日本に寄生しているアメリカが移植したガン細胞は「くひぇーっ、俺を摘出するなら国民の半数の賛成が必要なのだあ」と人面蘇のように奇声をわめきたてている。そんな妄言に耳をかしてどうする。米国に移植された気持ちの悪い人面蘇は無条件に摘出すればいいのだ。

 我々は現憲法の改憲条項に病的な忠義を発揮するサヨクを警戒しなければならない。


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