憲法案を記してみて、筆者は興ざめた気分である。要するに筆者は野暮天なことをしている。筆者の案は、日本に昔からあった国体を再定義し、それに近代的理性的な政治思想を加味しただけのものだ。
もちろん、それだけでいいと筆者は考える。ナントカ権とか余分なものは不要だ。
昔からのありようを再定義する作業の退屈さ。それは、言うなれば以下のような内容を朗読する作業に似ている。
@ 親孝行をしましょう。
@ 勤勉に働きましょう。
@ 人に誠実に接しましょう。
もちろん、これらは全て正しい。憲法の定義とは、これらのように判りきっている常識論を記していく作業に似ている。日本における周知の伝統的なありようを、今更のように定義する退屈さ。
筆者は、筆者の憲法案を一から十まで当然の内容だと考えるが、読んでみてさして面白いシロモノではない。
筆者と逆の発想に立つ者とは、先人の作り上げてきた国体や常識を、愚かな陋習と決め付ける発想の者だ。自分の奉じる思想(ヘーワケンポーとか社会主義とか)にそれらを凌駕した偉大な知恵があるかのような思い上がりをもつ者。
そういう連中は、例えば明治憲法下にあった多くの人々を、「人々を戦争に駆り立てた悪者」、「その悪者に踊らされた愚者」、「その悪者を看過した無責任な者」のいずれかと定義する。過去の人々は全て「悪者」、「愚者」、「無責任な者」のいずれかという発想。
そういう連中が唯一偉大だと認めるのが「悪者と戦った人間」である。大塩平八郎とか天草四郎とか由井小雪とか共産党などがそれだと呼称する。彼らを「意識の高い賢者」とし、自分をもそういった「意識の高い賢者」と自称する。「愚者」と決め付けた人々がもたらした祖国の独立と、平和と、自由と、高度な技術力と職業道徳が生み出す豊かさを満面に享受しながら。
こういう思い上がりもつ連中こそが愚者なのだ。
昨今、その愚者が多い。自分様に祖先を凌駕した偉大な知恵があると思い上がった愚者だ。そういう愚者が、護憲であったり、現憲法の内容の祖先に対して思い上がった部分を更に誇張した改憲論をさえずる。
結局、筆者のやりたかった事とは、
@ 日本の国の常識(皇室、権威権力二分制)
@ 近代国家の常識(民主制、独裁の抑止、三権分立)
これをあらためて見つめ提起することだ。憲法とは、それで十分なのだ。