国体創造 - 1 平成新憲法私案

1.2 解説

 新憲法はどのような観点で造られるべきか。筆者は以下要件を提案する。

一、権威権力分離制度
 権威と権力の完全な分離により独裁制度を抑止する。
二、論理憲法
 空文詩文憲法を排して政治機構を定義した論理憲法にする。
三、子孫信頼主義
 説教や政策内容の拘束を極力減らし、子孫に自由な政策実現環境をもたらす。
四、裁判院制度
 裁判院をおき司法を完全に独立する
五、廃県置藩
 都道府県を廃止し、中央政府と藩の二種類のみを行政上の区分とする。
六、地方分権
 藩に大幅な権限を認め、中央政府の権限を必要最小限にする。

 それぞれを説明する。

1 権威権力分離制度

 新憲法では、権威と権力の完全な分離により独裁制度を抑止するべきだ。

 どうせ憲法を作成するのであるなら、世界の憲法の歴史、国体の歴史を変えるような案を憲法に持ち込みたい。
 もちろんそれは、ブリョクのホーキとか、安いマヌケなスローガンとかではない。環境権とかナントカ権とかみたいに、公的な存在にひたすらケンリを要求するケンリ豚憲法ではない。憲法上にできるだけ沢山のケンリを記述し、そのケンリの量が多い事をもって、ナニかステキなリソーを目指しているかのように錯覚して悦に浸るなど底無しにみっともない。
 イギリスの議会民主制の発案に匹敵するような、国体についての根本的かつ独創的な発案だ。世界中の人間にスゲーとか、やられたあとか思わせるような強力な発案。

 実は既に我々日本人はそれをとうの昔に実現している。その発案とは、権威権力二分化体制に他ならない。

 皇室と幕府を政治機構の両輪とし、独裁者を完全に抑止する発案。もちろん筆者の発案ではない。これは源頼朝が編み出した政治機構である。鎌倉、江戸、明治をえて現代へと続いてきた我が国独特の政治形態だ。
 権威、権力、この二つの政治構成要素は、以下のようなものだ。

 権威権力
具体的には皇室幕府、政府
政治機構における位置ずけ最高権威者にして、いかなる権力も無い。最高権力者だが、最高権威者を上回る権威はない。
任命世襲とすることで最高権力者が天皇を騙る事を不可能にし、最高権力者との兼任を物理的に抑止する。最高権威者に任命される形式をとる。
役目聖(司祭、儀式)俗(実務)
体現する意志神、祖先その時代の人間

 上記二職の両方を完全に掌握した者を独裁者という。北朝鮮の金日成や旧ソ連のスターリン、支那の毛沢東、ルーマニアのチャウシェスクのような存在だ。最高権力者であり、かつ最高権威者として賛美と崇拝の対象となる存在。
 権力者が権威者を兼任する、すなわち賛美や崇拝の対象となる社会体制は最悪のものだ。
 そういう社会体制では、おうおうに独裁者への批判は死をもって抑制される。信仰の対象とは絶対不可侵なものだからだ。その信仰の対象が最高国家権力者と同一になった瞬間、その世界は天国と名乗らさせられる地獄となる。
 そういう社会体制では、政策的誤謬による悲しみや絶望や不安にさい悩まされながら、ミケンにしわ一つ寄せることは許されない。空腹をかかえつつ、ひたすら笑顔で独裁者及び現体制を賛美しなければならない。核実験などによる放射線障害に苦しみながら、顔を苦痛に歪める事すら許されない。ひたすら笑顔でマスゲームを踊らねばならない。外国の記者には、いかに自分たちが恵まれているかを力説しなければならない。最高権力者が指示した通りの「日本の歴史的犯罪」をさえずらねばならない。

 逆に皇室のように権力者でない権威者が賛美や崇拝の対象となったところで、いかなる実害も無い。実害がない点で、スポーツ選手やアイドル歌手や俳優への賛美や崇拝と同じである。権力者でない存在がいかに崇拝されたところで、何一つ実害がない。権力が無いのだから当然だ。

 上記二職(権威者、権力者)を制度的に完全に分離することにより、独裁者の台頭を完全に抑止しなければならない。源頼朝が考え出した権威権力二分制は、独裁者抑止のための究極にして完全な政治制度なのだ。

余談:自分のいいところが見えない日本人

 よく、自分の長所短所は自分では見えないと言われる。これほど日本人に当てはまる指摘はない。

 権威権力二分化は三権分立などより更に重要な事柄だ。そういう政治制度の根幹に関わる部分で、いとも簡単に日本人は鎌倉時代に完全な政治制度を作り上げてしまった。それがいかにものすごい事かを、多くの日本人は理解していない。

 支那やロシアでは、皇帝(権威者兼権力者)の圧政に人々は苦しみ続けた。その圧政が終わりレーニンやスターリン、毛沢東の時代が始まっても何一つ圧政は改善されなかった。毛沢東やスターリン(権威者兼権力者)が全く批判(権威の瓦解)を許さず誤謬に満ちた政策を行い、数千万人の餓死者を出した。おまけに人々の吊し上げを恐れた毛沢東やスターリンは、文化大革命など更に数千万人を殺すとんでもない虐殺恐怖政治で応じた。
 ポーランドやルーマニア、東ドイツなど東欧諸国においても同様である。戦前ではヒトラー(権威者兼権力者)が、ユダヤ人を殺しまくった。
 南米やアフリカにおいても幾度と無くこういう社会体制が生まれ滅びていった。そしてそれは今現在も続いている。

 明治維新の成功も結局はこの権威権力二分化体制に起因する。十八世紀以降、悪辣な欧米列強の侵略に世界中の国々は、傍観と内紛に明け暮れ、目先の利益の為に列強の手先となる者も現れ、結局次々と植民地となり続けた。日本においても内紛に発展しかけたが、維新軍が天皇をいただき皇軍となったため幕府は江戸城を明け渡し内戦による国力疲弊は抑止された。そして世界中の国々が欧米列強の支配下におかれなから、日本のみ近代化に成功し植民地化は回避された。

# 欧米列強の植民地化を回避できたこと。
# 独裁虐殺恐怖政治を抑止してきたこと。

 これがいかに素晴らしい事か、多くの日本人は今一つ理解していない。これに苦しみ続け、あるいは今も苦しみ続けている世界中の人々からすればヨダレが出るような事柄だ。

 権威権力二分化体制の桁外れの利点は、現在ではほとんど隠蔽されている。
 その理由は明白だ。この政治体制の大切さが人々に知れ渡ると困る連中がおり隠蔽をしてきたからだ。それは主に社会主義者及びそれに操られた連中である。権威権力二分化体制の桁外れの功績に光が当ると、社会主義体制への批判につながり、更に皇室の大切さを再認識する結果となる。全力で隠蔽するべき内容となるわけだ。
 そもそも本来、社会主義とは独裁主義のことだ。「労働者の政権」なるものによる独裁により、気に入らないあらゆる政治勢力を暴力革命で駆逐する発想である。あらゆる社会主義体制は、恐るべき暴力と恐怖で国民を統制するが、その思想的背景はその点にある。思想的基盤自体が暴力による政治弾圧や統制を肯定するものなのだ。それゆえ、戦前の共産党や現在の中核派なども殺人テロや放火を繰り返した。中核派などは今現在も続けている。
 独裁主義者が、独裁を抑止する政治制度を阻もうとするのはしごく当然の事だ。共産党など独裁政党が伝統的にテンノーセーハンタイなのは、結局その点にある。
 権威権力の全てを手中に収めようとする政治勢力なら、他の権威者の存在を否定するのは当たり前の話だ。

 我々日本人は、こういう桁はずれにすごい事を成し遂げていながら、自分では今一つ分かっていない。その一方、ヘーワケンポーとか諸外国から見れば愚にもつかないようなシロモノを鼻高々と自慢する連中がいたりする。
 よく、自分の長所短所は自分では見えないと言われるが、日本人ほどこれに当てはまる指摘はない。

 山本七平氏は、こういう日本人の有り様を「優秀だが世間知らずのお坊ちゃん」と評している。このお坊ちゃんは、他人から見れば羨望の的となるような、とんでもなく高度な仕事を苦もなく行う。しかし世間知らずのお坊ちゃんは、自分ではたいしたコトとは何ら思わない。その一方、悪趣味な掛け軸(憲法)などの下らない道楽を鼻高々と自慢する。

余談:君主の存在しない国はいかにして国体を保持しているか

 日本は皇室を権威者とすることで国体を保持している。では君主の存在しない各国はいかにして国を国たらしめているのか。それを以下に例示する。

米国:戦争

 米国が国を国として保持し続けるために行っているのは戦争である。米国を米国たらしめている根本神話は「世界の民主主義を守る強いヒーロー」という妄想である。この妄想を国民の共通認識とすることで国を保持している。
 ということは、戦争ができなくなれば米国は瓦解するということだ。戦争の繰り返しは米国の政治体制の必然なのだ。瓦解を防ぐためにも米国は今後も戦争を繰り返すだろう。
 日本を支配下におきソ連を叩き壊し、そしてイラク北鮮を「討伐」した後、敵として残るのは何か。それは支那である。米国は間違いなく残る唯一の敵である支那との戦争を行うだろう。それが米国の宿命だからだ。そして支那を「解放」した後、世界支配を完了した米国は戦争のできなくなった現実に茫然自失することだろう。

支那韓国北鮮:反日人種差別

 支那韓国北鮮が国を国として保持し続けるために行っているのは反日人種差別政策である。共産支那当局の支配を正当化している根本神話は「日本の『侵略』から守ったヒーロー」という妄想である。この妄想を国民の共通認識とすることで国を保持している。
 ということは、反日人種差別政策ができなくなれば共産支那は瓦解するということだ。反日人種差別政策の繰り返しは共産支那の政治体制の必然なのだ。日本がどれだけたくさんのODAを差し出そうが、瓦解を防ぐためにも共産支那は反日人種差別政策を繰り返してきたし、今後も繰り返すだろう。共産支那が存在する限り。よって日本にとっては、そもそも共産支那など潰す以外にないのだ。

フランス:革命神話の伝承

 フランスが国を国として保持し続けるために行っているのは革命神話の伝承である。フランス政府を政府たらしめている根本神話は「悪い王族をやっつけたヒーロー」という妄想である。この妄想を国民の共通認識とすることで国を保持している。
 よって革命後の支配者である侵略者ナポレオンは英雄として語りつがれる。

イスラム諸国:宗教

 イスラム諸国が国を国として保持し続けるために用いているのは宗教である。これはその宗教が国民にとって伝統的になじみ深いものである場合、政治体制として必ずしも間違ったものではない。
 しかし宗教の教えはおうおうに具体的であり、そのため時に国の進歩を妨げる。かつてイランでは国王が地主支配の打破など先進的な政策を行おうとしたが、原理的なイスラム集団(守旧派と言うべきか)の反対にあい退位に追い込まれた。その集団の指導者がホメイニである。国王よりも宗教のほうが上位であり、宗教の教えに反するものは国王ですら退位させられるというわけだ。国王ですら改革ができないわけだから、もはや誰にも改革などできまい。明治天皇が旗印となって明治維新をすすめた日本と対照的である。
 とはいえ今の日本にも憲法原理主義みたいな連中が天皇をないがしろにし改革を妨げまくっているわけだから、我々も安直にイランを笑える立場に無い。

 国であれ人であれ存在し続けるには、能動的な目的が必要なのだ。人の場合はそれを「生きがい」と言う。単に存在してさえいれば満足というものではない。米国は「『自由と民主主義の敵』をやっつける」戦争に存在意義(生きがい)を見出し、支那は「『侵略者日本』をやっつけた」戦争を美談として語りづぎ日本への憎しみを煽り続けることに存在意義(生きがい)を見出している。「憎むことが生きがい」という有り様は、ほとんど小説の宮本武蔵に出てくるお杉婆だ。

米国、支那、フランスなど非君主国:「侵略者」、「旧体制」、「民主主義の敵」をやっつける戦争や革命を行い、それを美化することで国を維持する。
日本、北欧、イギリスなど君主国:君主のもとで国を維持する。

 読者諸氏はどちらを望ましいと考えるだろうか。
 テンノーセーハンタイのサヨクは、非君主国が「戦争や暴力革命の美化」により国体を維持している現実を認識するべきだろう。と一応書いたが、そもそもサヨクとは支那における「戦争や暴力革命の美化」については看過もしくは賛同する輩=支那が行う戦争には積極的に賛同する輩なわけで、指摘自体が無意味なわけだが。

2 論理憲法

 新憲法では、空文詩文憲法を排して政治機構を定義した論理憲法にするべきだ。
 日本の現憲法を含む世界中の憲法を読んで感じるのは、論理性具体性の欠如である。何か詩を読んでいるかのような抽象的な内容が多い。「ナントカのケンリ」などと記すのみで、誰が誰にどういう責務を負うのか不明瞭な内容である点など。

 これういった詩文憲法は、呪術信仰に似ている。「コクミンはブンカテキなセイカツをするケンリがある。」などとひたすら繰り返すことで、いつのまにやらブンカテキなセイカツになると信じる呪術信仰。誰がブンカテキなセイカツをもたらすのか不明瞭で、どういう状態がブンカテキなのかも不明瞭だ。

 詩は所詮詩である。旧ソ連にもこういう詩は存在したが、実際の政治には何一つ影響をあたえず単なる詩で終った。
 憲法は詩ではなく、説明書、運用手順書であるべきだ。憲法が国体運営の具体的な説明書であるなら、憲法違反と憲法遵守の判断が明瞭になる。

 例えば筆者なら「ブンカテキ云々」は、以下のように表現する。

 藩(筆者が提起する地方行政単位)は以下の事を行う。
* 福利厚生を行う。
* 社会基盤整備を行う。
* 藩民が行う伝統的な文化活動の保守繁栄を補佐する。
* 藩民に郷土文化の教育を行う。
* 藩民への飢餓や人権侵害を抑止する。
 :
 :

 ↑これなら誰が誰にどういう責務を負うのかが明瞭だ。

 言葉遊びが言葉遊びで終るぶんには、何ら問題はない。しかし、その詩が憲法という形で国民を統制するとなるとはなはだ困る。
 いかなる解釈にも可能な詩に統制される社会体制。それは実質的には、詩を解釈する存在により統制される社会体制である。違憲立法などを審査する司法組織が、国民の代表者による立法を自由自在に無視し踏みにじることのできる社会だ。
 そうならないためには、憲法の内容は論理的具体的であるべきだ。司法が奇怪な憲法解釈で民意の実現を妨害をするような事態を防ぐために。

 論理性の欠如した自己陶酔詩文憲法は、そもそも恥ずかしくみっともない。目を輝かせて「センソーノホーキ」とかを、何一つ実効性の無い空文を自分に酔いしれて朗読する有り様の底無しの恥ずかしさ。赤面モノだ。

 論理的具体的な憲法とは、例えば以下のような内容を列記したものである。

@ 各国体構成要素の具体的な定義。
@ 各国体構成要素となる条件の具体的な定義。
@ 各国体構成要素が行う内容の具体的な定義。
@ 各国体構成要素が行ってはならない内容の具体的な定義。

 つまり(政策でなく)政治構造を定義するべきなのだ。

 憲法から安い説教や自己満足の理念や押し付けがましい政策内容をできるだけ除外し、政治機構を中心に定義した憲法。天皇、国民、国会、内閣、司法、藩議会、藩主、藩民、官僚、という政治機構の構成要素それぞれについての責務関係の定義のみを記述した憲法。いわば政治機構の運用手順を記した説明書のような憲法。筆者はそれで良いと考える。
 そもそも筆者は政府に説教を求めない。政府ごときが国民に生き様その他を憲法などで説教するなど、僭越だと考える。
 むろん中にはヘーワってタイセツダヨーとか憲法などで政府に説教されたがる国民がいるのは理解している。そういうお上に説教されたがり君の需要を憲法の条文で満たす必要はない。勝手に自分で自分を説教して暮らせば良い。
 自由は統制を含むことができるが、統制は自由を含むことはできない。政府ごときが国民の心の中に立ち入り、説教で統制することを筆者は否定する。憲法は運用手順のみを記したものであるべきだ。 

 また、筆者の私案ではいわいる権利、義務の概念は除外した。筆者には「ナントカの権利がある」とか、誰が誰にどんな責務を負うのか不明瞭な詩文に酔いしれる発想はない。
 基本的には、政治機構における各構成要素の責務のみ記した。責務を果たされる対象に、それを受ける権利が存在することは当然のことだからだ。

 憲法に美を求めるとするのなら、それは恥ずかしい詩的表現に求めるのではなく、贅肉を削り落とした機能美や、整然とした論理美に求めるべきだ。筋道の通った機能性を徹底して追求すれば、おおむね美しくなるものだ。

3 子孫信頼主義

 新憲法では、説教や政策内容の拘束を極力減らし、子孫に自由な政策実現環境をもたらすべきだ。

 憲法で様々な政策を定義したなら、我々の子孫はそれに拘束される。自在な立法など議会運営や行政ができなくなる。こういう子孫拘束趣味は、民主制を制限し我々の子孫を信頼しない発想から生まれる。

 例えば、「日本国民は、(中略)武力による威嚇又は武力の行使を国際紛争を解決する手段としては永久にこれを認めない。」という読売新聞私案にある定義。

 これを翻訳すると、

「お前達子孫は、武力による威嚇又は武力の行使を国際紛争を解決する手段とするな。」

 という実質的には子孫への命令なのだ。更にくわしく表現すると

「民衆による代表者(議会や内閣)が決めたことであっても、武力による威嚇又は武力の行使を国際紛争を解決する手段とすることを禁じる。お前たちの民意や実状の判断など信用できない。俺達祖先の意向を重視せよ。」

 という発想。つまりこれは子孫の民意(議決や内閣の政策)を憲法(正確には祖先の意向)で制限する発想=民主制度を制限する発想なのだ。より完璧な民主制を指向するのであるなら、憲法では政治機構のみを規定するべきであり、政策の内容を規定するべきでない。
 手かせ足かせをはめて子孫の自由を奪う発想、これは子孫を信頼していない発想に他ならない。

 ちなみにこの件についての筆者の発想はこう↓である。

「お前達子孫が将来、武力による威嚇又は武力の行使により国際紛争を解決する手段とするのであるなら、それはそれできっと事情と根拠があるに違いない。我々祖先ではなく、その時に民衆の代表者が決めたことに従って政治運営をしたまえ。未来は諸君のものだ。」

 子孫を信頼している発想だ。それゆえ筆者は武力による云々の定義など憲法では規定しない。武力の行使方法を含むあらゆる政治運営の内容は、子孫の意志や判断で決めればいい。実状をもっとも的確に把握しているのはその状況下にある子孫に他ならない。

 占領軍及びその腰巾着は、実状を無視した軍備放棄条項という手かせ足かせを我々子孫にはめた。その結果危機管理もまともにできない国となり、子孫である我々は地震災害の発生にまともに身動きできず、犠牲者として大量に死亡する結果となった。
 この軍備放棄条項が存在する限り、今後とも何度も何度も人々は身動きのとれないままに死ぬだろう。こんなことはもう沢山だ。この過ちを繰り返すべきでない。

 だいたい、読売私案では主語が「日本国民は」になっている点が僭越極まりない。日本国民である筆者は、例えば相手国が武力による威嚇をしてきた場合、武力による威嚇は必要だと考える。そもそも先進国同士の戦争の無い現代においては、武力とは実際の戦闘のためというより、威嚇の為に存在する。
 勝手に筆者など国民の心の中を定義するな。筆者が不愉快かつ危険だと考えるのは、まさにこうった国民の心の中を政府ごときが臆面もなく定義する発想なのだ。実に僭越だ。思い上がるな。

 昨今、環境権とか耳障りの良いだけの奇怪な政策を憲法で定義することにより、子孫に手かせ足かせをはめたがる憲法私案が、大量に存在する。現憲法の手かせ足かせ(ヘーワシュギ)を丸ごと残し、それに新しい手かせ足かせ(カンキョーケンなど)をの増やしあいを競っているかのようだ。珍妙な「理念」を押し付けて、子孫を徹底して拘束しようとする驚くべき量の手かせ足かせの数々。
 子孫に無理矢理「大リーグ平和主義者養成ギプス」などあらゆる拘束具をはめたがる星一徹もどきが多い。そのギプスをはめられた子孫は、災害や外国の侵略や恫喝があっても、憲法という強力なバネに何一つ身動きできないまま、転んで頭を打って死ぬのがオチだろう。無理矢理ギプスをはめた我々祖先をのろいながら。
 拘束憲法マニアは、そんなに拘束が好きなら、自分で自分を勝手に拘束していろ。憲法という形で他の国民を巻き込むな。自宅の床の間にでもヘーワケンポー第9ジョー掛け軸でも飾り、ひたすら自宅で戦争を放棄していろ。
 手かせ足かせ憲法(ブリョクのホーキとか政策内容定義憲法)愛好者が、その昔占領軍からヘーワケンポー第9ジョー縄で縛られる喜びを調教されたのは知ってはいる。しかし、子孫までその悪趣味な縄で縛り上げようとするな。その悪趣味な縄のために身動きできず、何人もの国民が既に災害などで死亡しているのだ。自分自身が手かせ足かせ憲法マニアだからと言って、子孫も同様の変態なわけではない。

 そりゃまあ、手かせ足かせ憲法発案者諸氏が、自分のご立派なリソーを子孫に自慢し、威張って命令したがるのは判るけどねえ。自分の体についた縄のアトを酔いしれる変態のように。
 憲法ではご立派なリソーとか説教とか政策内容の定義とかをできるだけ除外して、子孫を信頼し自由な政治運営をやたせたいものだ。

4 裁判院制度

 新憲法では、裁判院をおき司法を完全に独立するべきだ。
 現憲法における司法の最高権力機関は、最高裁判所である。その長官は内閣総理大臣が任命する。この制度も敏速な政治を行う上であながち悪くない。ただ、三権の分立という建前から考えると不完全である。なにしろ内閣総理大臣が任命するわけなのだから。

 そこで筆者は国民からの選挙によって選ばれる議員で構成する裁判院をおき、司法の最高権力組織とすることを提起する。国会を立法の議会とするなら、いわば司法の議会である。そして国会が内閣総理大臣を指名するように、最高裁判所長官を指名する。
 裁判院は違憲審査を行い、最高裁判所長官の任命を行うためだけの議会である。法による裁定を行う権限はない。それは最高裁判所以下の下級審が行う。

 裁判員議員は例えば以下の条件の者から構成させるのが望ましい。地方代表者を構成するのが国会(の地方区)ならば、各職代表から構成されるのが裁判院である。

 内閣総理大臣経験者:一名
 十年以上の議員経験者:一名
 三十年以上の判事検事弁護士経験者:五名
 三十年以上の軍人経験者:一名
 三十年以上の官僚経験者:一名
 文化勲章受賞者:一名
 自営業として三十年以上の納税実績のある者:一名
 著物業として三十年以上の納税実績のある者:一名
 芸術芸能を生業として三十年以上の納税実績のある者:一名
 武道格闘技運動競技を生業として十年以上の納税実績のある者:一名
 職工大工板前技師を生業として三十年以上の納税実績のある者:一名
 運輸業運転手を生業として三十年以上の納税実績のある者:一名
 売買金融接客を生業として三十年以上の納税実績のある者:一名
 十年以上の路上生活を行ってきた者:一名
 中度以上の障害者:一名

 例えば「自営業として三十年以上の納税実績のある者」枠の選挙はどういうものか。まずその条件に当てはまる立候補者が三十年間の納税証明を付与して選挙管理委員会に提出し供託金を預け立候補する。そして全国区選挙を行い、日本の「自営業として三十年以上の納税実績のある者」代表を選ぶというわけだ。

5 廃県置藩六、地方分権

 新憲法では、都道府県を廃止し、中央政府と地方政府の二種類のみを行政上の区分とするべきだ。また地方政府に大幅な権限を認め、中央政府の権限を必要最小限にするべきだ。地方政府は、三百程度でいいだろう。

 なぜ都道府県を廃止するのか。多段階の行政単位は、無駄だからだ。
 なぜ地方に権限を認めるべきか。地元の方がより実状を理解しているからだ。

 上記二点に近い内容は、自由党の小沢氏なども提起している。

 筆者はその新しい地方政府を藩と呼称することを提起する。地方政府は、文化的背景が同一である地域で分けられるべきだ。文化的背景が異なれば望ましい条令や政策も異なる。全く異なる文化的背景の藩民が、同一の条令や政策で暮らすはめになることは望ましくない。例えば岩手県などは、南北で全く文化的背景が異なるにも関わらず同一の行政単位下におかれている。
 日本の郷土文化はおおむね藩単位で成熟していった。江戸時代の文化単位である藩という区分で分けたいと思う。

 言うまでもないが、藩主は世襲ではない。選挙により選ばれる。また、条令を制定する藩議会も設ける。
 地方分権は結構なのだが、藩意識が高まりすぎて中央への反乱や独立も予想される。それを抑止するため藩主は天皇に任官される建前とした。内閣総理大臣同様に。


 前のページ(序)に 次のページ(本文)