筆者はここに憲法私案を作成した。その理由は以下。
1:現憲法は導入経緯、内容それぞれが完膚なきほどにダメだから。
2:ちまたにある改憲案にも、極めて問題のある内容が多いから。
ちまたの憲法案に、あまりにトンデモが多い。このままだと、現憲法に輪を掛けた更にひどいシロモノが出来上がると筆者は憂慮する。読売案など、むしろ現憲法よりひどい部分が多い。
ヘーワシュギなど、子孫に手かせ足かせをはめて民主制を制限しようとする内容。コクミンシュケンとか、皇室を国民の主権との対立要素ととらえるもの。ひたすらケンリのバーゲンセールに及んでいるもの。現憲法にある占領軍の洗脳部分を更に誇張したもの。こういうひどいシロモノの山山山。
憲法とは国体を定義したものだ。日本の国体はそもそもどうあるべきか。歴史的文化的な観点などから統合的に考える必要がある。にもかかわらず、ただひたすらカンキョーケンとか昨今はやりの空虚な言葉遊びを入れたがる程度の内容が多い。
そこで筆者が「憲法はこうあるべきだ」と明瞭に示す事にした。
そもそも国に憲法は必要ない。イギリスなど憲法の存在しない国は多い。日本においても江戸時代以前は憲法など存在しなかったが、国はつつがなく運営されていた。
その一方、憲法を必要だとする考えも根強い。以下にそういった憲法必要論の根拠を列記し、それぞれへの所感を記す。その中で新憲法制定がなぜ必要なのかを記す。
↑これは間違っている。憲法は権力の暴走をなんら抑止しない。例えば旧ソ連に憲法は存在したし、支那にも憲法は存在する。しかしながら共産党権力は暴走しまくり、桁外れに大量の国民を殺しまくった。支那では昔ほどではないにせよ、今現在も殺しまくっている。
あまり知られていないが、これらの国の憲法でも、集会の自由、言論の自由、三権分立などは定義されている。しかし、実際には集会の自由など無く、言論の自由など皆無で、三権は共産党の最高幹部に集約されている。
憲法はしょせん紙の上の能書にすぎない。実質的に国がどのように運営されるかは、国民の伝統的なあり方や規範によってのみ決まる。
例えば、鶏小屋に「鶏同志の喧嘩、これを永久に放棄する」と書いた紙を張っても鶏は何一つ喧嘩をやめない。「全ての鶏は人権を尊重される」などと張り出しても、鶏同志が人権を尊び合うことはない。あたりまえだ。鶏なのだから。
「能書きを記した→その結果、能書きの通りになる」などというものではない。当然の話だが。
日本で民主制が機能しているのは、別に憲法上の規定があるからではない。話し合いの伝統があるからだ。
天照大神が岩戸にお隠れになられたおりに神々が話し合われた事に始まり、農村においても昔から随時寄り合いがもたれてきた。力のある一部の人間が独断で決めるのではなく、おりを見て話し合う伝統が我々の血脈に受け継がれている。
逆に支那やロシアのような徹底した皇帝の独裁支配の伝統が続いた国々では、憲法がどうあれ独裁体制となる。そういう体質が血脈に受け継がれているからだ。
憲法は全く「権力の暴走」なるものを抑止する力にならない。社会主義国の憲法がそれを明瞭に証明している。
↑これも間違っている。憲法により対外的な対面を得ようなどとするまでもなく、今の日本が先進国であることを疑う者などいないからだ。
大日本帝国憲法は、こういう需要もあって定められたものと言われる。
当時の日本は、世界では第三世界程度の認識しか持たれていなかった。あらゆる手段を用いて、日本が近代国家であることを内外に訴える必要があった。国が外国に舐められると、即座に侵略支配される時代だ。
しかし今現在の日本を第三世界だと考える国はない。今の日本は超先進国である。必死で背伸びをして、日本は近代国家でありますなどと虚勢をはる必要が全くない。日本を近代国家であることを疑う者など、皆無だ。(いるとするなら日本のサヨク位だろう。やたらマイナーな事例で日本はゼンキンダイテキだあ、などと強弁するおなじみの言い草。連中の視点では、支那が理想の近代国家ということになるのか?)
空虚な文字列を御大層に振りかざして虚勢を張る必要など、もうないのだ。文字世界などではなく、日本は現実世界で先進国となったからだ。
↑これは、説得力のある言い草だ。しかし、「ならば破棄すればいいではないか」、「明治憲法に戻せばいいではないか」とツッコまれれば、返す言葉が無い。
確かにそれだけも十分である。現憲法破棄、あるいは明治憲法への復帰だけで戦後問題の多くが解決するだろう。
憲法必要論の根拠4:時代の節目を強調するために新しい憲法が必要
↑これは、ある程度説得力がある言い草だ。
何か御大層な文字列を記して、仰々しく発布することで、何やらステキな世の中が来るかのように盛り上げるやり方。空虚だが、ある程度の意味がある。
占領からの脱却を強調するための盛り上げなら、ある程度の意味があろう。
筆者が新憲法を提起する理由は、この根拠3、4である。
イギリスや江戸時代以前の日本という実例が示すように、国は憲法などなくとも法律があれば機能する。日本のように長い文化的な伝統のある国では、本来憲法など必要はない。
しかし日本では、憲法を始めとする占領の汚物が大量にこびりついている。これを洗い落とすセレモニーが必要だ。
そのために、改憲が必要なのだ。本文は、その改憲のための一案である。
逆に言うと、憲法の提起をした理由は、その程度の理由でしかない。いずれにせよ廃憲もまた正しい選択の一つである。