左翼がサヨクにさよく時 - 2 サヨクの心理

2.12 サヨクの文化弾圧統制体質

[病理:文化弾圧統制体質]

 サヨクはおうおうにワルイ文化とかヨイ文化とかを規定して弾圧統制したがる。きもちわるい発想だ。文化を統制するということは、人間を統制するということだからだ。
 そういったサヨクの文化弾圧統制体質について記す。

1 文化政策の分類

 文化政策(文化に対する政策的な取り組み方)は、おおまかに以下のように類別できる。

(1)革新的な政策

 政府が積極的に政策的に文化を改めていくべきという考えにもとずく政策。

 伝統文化の評価 :愚かな陋習が多い。愚かな陋習かどうかを政府が判断し、愚かな陋習と政府が判断した文化については破壊し改めてやる必要がある。
 新しい文化の創造:民衆に自由な文化活動を認めると遅れた陋習を復古させたり、悪しき退廃文化を作り上げたりしがち。政府が正しい文化を創造し民衆に与えてやるべき。
 文化統制    :愚かな民衆が遅れた陋習を復古させたり、悪しき退廃文化を作り上げたりしないように監視する必要がある。そういう反動分子は矯正し時に粛正する必要もある。
 教育する文化  :愚衆が培った陋習を教える必要はない。子供たちには政府が進歩的な文化を示し教えていくべき。

(2)保守的な政策

 政府は民衆の培った文化を謙虚に保守していけば良いという考えにもとずく政策。

 伝統文化の評価 :先人の偉大な知恵である。政府は保守していかねばならない。
 新しい文化の創造:政府が創造し民衆に与えるなど僭越。文化の創造は民衆にまかせれば良い。
 文化統制    :民衆の文化活動を監視統制などするべきでない。政府は民衆が行う文化活動を妨げないようにするべきだ。伝統文化の保守以外には国策上有益と思える文化活動を補佐する程度にするべきだ。
 教育する文化  :子供たちには民衆が培った伝統にもとづく文化を教育するべき。

 社会主義諸国では(1)の政策がとられ、自由主義諸国では(2)の政策がとられる。(1)のもっともひどい例は支那の文化大革命である。毛沢東率いる紅衛兵は支那全土において、数百年数千年前から続く仏像などあらゆる文化財を破壊しまくり、愚かな陋習の継承者とみなした人間など数千万人を虐殺した。
 サヨクはこういった文化大革命支那政府などのお達しに忠誠を発揮し、こういう社会体制をおおむね愛している。

 政府がとるべき文化政策は、ひたすら謙虚に民衆の培った伝統文化を保守し、また民衆が作り上げる文化活動をできるだけ阻害せず時に補佐する程度でいいのだ。文化の在り方などを政府ごときがご指導ご鞭撻くださる必要はないのだ。
 もちろん国営放送によるテレビドラマ製作なども筆者は否定する。

2 サヨクの文化評論にある恐るべき紋切り型

 サヨクはよく映画や書物やゲームなどあらゆる文化の評論を訳知り顔で行う。その評論内容はおそろしいまでに紋切り型である。おおむね内容そのものの出来栄えとは無関係な評論である。

 サヨクにありがちな紋切り評論の例

@ ダンジョビョードーを訴えている→よい作品
@ ニホングンの行ったセンソーのヒサンサを訴えている→よい作品
@ ボーリョクテキ→わるい作品
@ テンノーセーをサンビしている→わるい作品
@ ケンリョクシャ(なぜかサヨク権力はこれに該当しない)と戦う人々を描写している→よい作品
@ ジンケンに配慮しない用語が用いられている→わるい作品

 このオンオフデジタル思考はほとんどアホである。文化の善し悪しは何かの政治宣伝を行っているかどうかなどと全く無関係なのだ。あたりまえのことだが。
 読者諸氏の中には映画や音楽や書物や絵画や舞台やゲームなどのいずれかを好きな人もあろう。読者諸氏が、なぜそれを愛好するに至ったのか。「なにかの政治宣伝を行っている作品なので良い」などと考えたからではないはずだ(中には「カムイ伝は階級闘争を描いたものだから良い」みたいな分かってないトンチキクンもいるだろうが)。

 サヨクによる文化紋切りボケ評論の具体例を以下に記す。

文化紋切りボケ評論1:天皇陛下ご即位十周年記念式典へのX−JAPAN参加にうろたえボケ評論

 天皇陛下ご即位十周年記念式典に人気ロックバンドX−JAPANなどが参加した。日本有数のビッグバンドの参加にうろたえたサヨクは、例によって以下の紋切りモードのボケ評論を展開した。

@ テンノーセーをサンビしている→わるいバンド
@ ケンリョクシャ(陛下がこれに該当するらしい)と戦っていない→わるいバンド

 演奏した内容と全く無関係なボケ評論を奏でまくっている。頭が奇怪な政治思想でパンクしてハードにデスメタル状態だ。

サヨク「ああ、X−JAPANはハンケンリョクだったのにテンノーセーをサンビしているうう。ロックのココロを忘れてしまったのかしら。ああ元に戻ってよおお。」

 仮に日本がサヨクが支配する支那みたいな社会体制であったなら、X−JAPANのメンバーは自己批判を強制され時に粛正されるのだろう。(というか支那ではロックミュージック自体が禁止されているのだが。)

文化紋切りボケ評論2:あるサヨクのばかげたドラゴンクエスト批判

 ドラゴンクエストとは子供たちや若者なら誰でも知っている人気コンピュータゲームだ。多くの敵と遭遇し倒して力量を上げ、最後の敵を倒すというもの。このゲームに、あるサヨクがイチャモンをつけた。

 「ドラゴンクエストは敵とのハナシアイがないからダメ」

 わ、わ、笑っては気の毒。↑これは福島某というサヨク国会議員のドラゴンクエスト評である。
 何かのアニメーション映画(題名を忘れた)において怪物と意思疎通を行う場面があった。そこで感動をしたと訴え、それに引き換えドラゴンクエストはそういった意思疎通がないのでダメとの論旨だった。

 誤解のないように記すが、筆者はドラゴンクエストを批判してはダメなどと主張しているのではない。ドラゴンクエストを好きな人間もいようし嫌いな人間もいよう。別に批判しても賛美してもかまわない。
 記しているのは論評内容の並外れたトンチキぶりである。ゲームなど文化表現の内容を評論する場合に、「敵とのハナシアイがないからダメ」などと記す底抜け脱線トンチキぶり。

 全く分かっていないことすら分かっていない「かしこさ1」のサヨクロードが、おうおうに文化をめちゃくちゃにする。自分にはあらゆることを論評するナシガシカの見識があると思い上がった「かしこさ1」が。そして方々の文化に対してこういう大恥評論の呪文を唱える。
 そして更にそれを真に受けてメダパニ状態になる「かしこさ0」のサヨクパピーがいたりする。

 かつて支那では毛沢東(サヨクロード)が紅衛兵(サヨクパピー)を支那全土に放ち、殺戮と虐殺が渦巻くドラクエワールドへと変貌させた。文化大革命だ。

3 サヨクの言葉狩り体質 [執筆日:H12/4/15]

 サヨクが得意とする文化弾圧の一つは、言葉狩りだ。

@ 石原都知事による「三国人」という言葉を用いたことへの、狂気のような吊し上げ。
@ 支那と書くな言論弾圧。

 なんでもこれらの言葉はサベツテキだからダメらしい。話にならないいいがかりだ。いかなる用語も差別的に用いられる場合がある。
 アメリカ人、インド人、かしこい、馬鹿、おもしろい、へんな、かわった、などいかなる言葉であっても、差別的な言い草の文脈で用いられる可能性がある。
 例えば、在日米軍基地に反対する近隣住民による言い草。

 「アメリカ人の兵隊が来ると、治安が悪くなる。」

 ↑これはどう見ても明瞭な差別発言である(事実ではあるが)。
 ちなみに、筆者は差別的であるかどうかなどより、事実であるかどうかを重視するのでこの発言を肯定する。例えば「黒人がアメリカの治安を悪くしている。」のような発言でも。筆者は、アメリカゆずりのサヨクのような偽善的なジンケン主義には立たない。事実は事実として語られるべきという発想だ。
 とはいえ、規律ある兵隊なんぞより六本木あたりでたむろするアメリカ人のほうが、余程治安を悪くしているのもまた事実だ。

 アメリカ人という言葉が差別的に用いられている。だからアメリカ人という言葉は禁止などとは、サヨクといえども言うまい。
 いかなる用語も差別的に(差別をするにあたって)用いられる場合がある。差別的に(差別をするにあたって)用いられた言葉だから使うなどという論法は、そもそも間違っているのだ。

 言葉もまた大切な文化である。かたわ、めくら、おし、ちんば、いざりなどの伝統的な言葉が「体の不自由な人」などの奇怪な言葉に置き換えられている。昔のテレビ番組を収録したビデオなどに、大量の鋏が入っている。まともな所業ではない。文化への敬意が全く不足した思い上がった所業だ。

 こういった三国人と言うな支那と書くな言論弾圧とは文化大革命の日本版なのだ。

4 サヨクの文化論や文化政策にある狂気

 以上に例示したサヨクのボケ評論や言葉狩りにあるのは

「何かの政治宣伝を行っているかどうかで文化の善し悪しを判断する狂気」
「文化(=民衆やその祖先の営み。すなわち民衆そのものやその祖先そのもの)に対する思い上がり」

 である。

 「何かの政治宣伝を行っているかどうかで文化の善し悪しを判断する狂気」とは、「政治的価値や政治的意味付けで文化の善し悪しを判断する狂気」と言い換えることができよう。こういう連中(サヨク)が政権を握ると(1)の社会体制となる。
 こういった政治的評価で文化の善し悪しを論じる病理は底無しの独善性をもつサヨク政治家独特のものだ。例えば自由民主党の議員などがある文化を、「自由主義的でないからダメ」「民主主義的でないからダメ」などいうボケ論評をする例はまずない。

 昨今(平成十三年)、サヨクは扶桑社の教科書を検定通過させまい、採用させまいと文部省や教育委員会に対して狂ったような圧力をかけている。かつて文化大革命で膨大な書物を焚書にし焼き払った支那共産党のように。扶桑社の教科書を教室から焚書すべく常軌を脱した悪宣伝を繰り返している。こういう狂態が発生する理由とは、サヨクが上記の狂気におかされているためなのだ。

5 ある政党が文化弾圧統制体質の持ち主かどうかを知る方法

 ある政党や政治組織が、上記の文化弾圧統制体質に犯されているかをどのようにして知ることができるか。それは皇室への考え方を知れば分かる。
 皇室は日本におけるあらゆる伝統文化の中核をなす存在であり礎である。政治組織や政治家などの文化政策や文化に対する考え方を知るには、皇室をどのように見据え評価しているかで最も顕著に知ることができる。皇室すら否定する政治組織であるなら、他の日本文化などいとも簡単に干渉添削修正弾圧迫害を行うであろう。

 ある政党や政治組織がテンノーセーハンタイとなるには、

政府による文化統制を肯定する発想:政府が民衆の培った文化の善し悪しを判断し改変する行為を肯定する狂気
民衆への思い上がり:民衆が生み出した文化(つまり民衆そのもの)に対する思い上がり

 が必要である。上記条件を完全に満たした者のみが、テンノーセーハンタイに陥ることができる。これはすなわち(1)である。
 具体的には共産党とか社民党の一部とかである。
 共産党は最近、文化大革命でおなじみの共産党一党独裁国家支那政府への接近を始めている。かつてはあらんかぎりの罵詈雑言で罵倒し合っていたにもかかわらず。わざわざ支那に出かけて、支那事変当時支那人日本人を大量に虐殺した支那共産政府を相手にニホングンコクシュギのシャザイを行うなど。類は友を呼ぶというやつだ。

 読者諸氏の中には映画や音楽や書物や絵画や舞台やゲームなどといった文化を好きな人もあろう。もし仮に(1)の社会体制(政府が政治的に文化の善し悪しを判断し弾圧する社会体制)となれば、もちろんそういった文化のすべてが政府による干渉添削修正弾圧迫害対象となる。

@ ボーリョクテキ→わるい作品
@ テンノーセーをサンビしている→わるい作品
@ ジンケンに配慮しない用語が用いられている→わるい作品
@ 敵とのハナシアイがない→わるい作品
@ 社会主義に反対している→わるい作品
@ 共産党政府を暗に批判している→わるい作品
@ ナンキンダイギャクサツの嘘を看破している→わるい作品
@ ムカシの悪いシャカイタイセーの伝統を受け継いでいる→わるい作品

 こういった幼児のような論法により。

6 総括(サヨクは人間よりイデオロギーを大切にする)

 文化とは人間の営みである。「人間の営み(皇室など文化)は尊びませんが、人間は尊びます」などという発想は成り立たない。人間の営み(文化)を尊ばないということは、人間を尊ばないことに等しい。
 政治的価値や政治的意味付けてで文化の善し悪しを判断する発想とは、文化よりイデオロギーを優先させる発想である。つまり人間よりイデオロギー(憲法とかナントカ主義とか)を優先させる発想だ。

 こういう発想だからこそ、サヨク権力の総本山である支那では政府のイデオロギーに当てはまらない大量の人間を殺しまくった。また日本のサヨクも、外国の軍隊や災害により殺される人々の命よりもヘーワケンポーを大切にする発想を得意とする。
 サヨクとは、人間(の営み=文化)よりイデオロギーを優先させる狂気をもっているのだ。

 サヨクは文化的な意味からも百害あって一利なし。潰さねばならない。

余談:ダンジョサベツ吊し上げ絵画展覧会を開いたサヨク[執筆日:H12/2/25][病理:文化弾圧統制体質]

 上記に出てきた大恥ドラクエ評論の国会議員、福島某。実はこのヒト、ダンジョサベツ吊し上げ絵画展覧会を開いた前歴がある。

 ある夜の討論番組(題名及び日時は忘れた)で、自慢げにそのレポートを行っていた。
 福島某によれば「絵画などの題材に女が多いのはダンジョサベツ」とのこと。そういう「ワルイ絵画」を集めて、悪意あるコメントをつけ吊し上げる展覧会を開いた有り様を、鼻高々と自慢していた。
 完全に狂っている。 

 筆者の知る限り、これと同じ暴挙を行った存在はただ一つだ。ナチスである。
 ナチスは「ユダヤ的芸術」と称するユダヤ人作の絵画などを集め、悪意ある配置と説明をつけた展覧会を開いた。ヒトラーが退廃芸術と呼称して否定したのは抽象画などだ。
 逆にナチスが積極的に肯定し推奨したのは、「肉体の美しさ」やら「労働の尊さ」などと言う主題である。ナチス時代にギリシャ彫刻のような裸体像が大量に作成された。
 サヨクの芸術観は、ナチスのそれと極めて共通している(そもそもナチスは社会主義政党なのだから当然かもしれないが)。上記の展覧会を開いたサヨクもさかんに「肉体の美しさを表現することはいいんですよ。」などと繰り返していた。
 サヨクもまた「肉体の美しさ」やら「労働の尊さ」みたいな歯の浮くような主題を推奨する。ついでに日本のサヨクは「(日本軍による)戦争の悲惨さ」とかも好きだ。

 こういう幼稚園の宗教絵本みたいな歯の浮くような説教であらゆる文化が埋め尽くされた社会。それにあてはまらないあらゆる芸術が吊し上げ添削弾圧粛正迫害対象となる社会。それが支那とか旧ソ連とか北朝鮮みたいな社会主義体制なのだ。

 筆者が子供のころ、北朝鮮から聞こえるラジオの宣伝放送を大笑いしながら聞いた覚えがある。歌の題名などが長くて滑稽なのだ。「偉大なる金日成主席は、労働者のために大いなる涙を流した。」みたいなヤツだ。アナウンサーが絶叫調なのが更に笑いを誘う。そして大合唱の歌が始まる。こうなるともう腹をよじって大笑いである。この抱腹絶倒の面白さを読者諸氏に伝えられないのはじつに残念である。
 読者諸氏はこういう音楽しか聞けない社会に住みたいだろうか。いや、数回聞く程度ならめちゃくちゃ面白いのだが。

余談:政治に関心を持つ者は政治至上主義的な思い上がりを戒めなければならない[執筆日:H12/3/5][病理:文化弾圧統制体質]

 政治に関心を持つ者が陥りがちな思い上がりに以下のようなものがある。

 俺は政治に関心がある→だから俺は意識の高い立派な人間
 政治に無関心な人々→意識の低い馬鹿

 「皆、政治に無関心な人ばかりです。」などと安物のテレビ解説者みたいなセリフで嘆いてみる人は多い。
 我々はこういう政治至上主義的な思い上がりを持たないように戒める必要がある。

 言うまでもないことだが政治に無関心な人間がいてもよい。人が何に関心を持って生きようがその人間の勝手である。
 関心の対象が、政治であっても異性であっても仕事であっても賭け事であってもいっこうにかまわない。はなはだ人の勝手というものだ。

 こういった政治至上主義的な思い上がりは、左右両翼を問わず政治マニアにありがちだ。中でもサヨクは、「俺は政治に関心がある→だから俺は意識の高い立派な人間」と訴えること(政治至上主義的に思い上がること)が最終目的なので、ほぼ100%この手の思い上がりをもつ。
 一方、政治マニア以外にはこういった思い上がりはまず存在しない。国民全てが靴に関心を持つべきだと考える靴屋。国民全てがガンダムに関心を持つべきだと考えるガンダムマニア。国民全てがロック音楽に関心を持つべきだと考えるロック音楽ファン。こういう馬鹿はまず存在しない。
 しかし、国民全てが政治に関心を持つべきだと考える政治マニアは存在する。こういった思い上がりは政治マニア独特のものだ。

 筆者もまたサヨクマニアを名乗っている通り、政治にいくらかの関心がある。だからと言ってなにかエライ人などでは全くない。ただのサヨクマニアであり、ガンダムマニアとかスカトロマニアとかより別段偉くもなんともない。

 もちろん投票に行く行かないも人の勝手である。投票率が低いことを問題視する公共媒体は多いが、別に問題でも何でもない。

 いずれにせよ、

@ 国民全員が政治に関心を持たねばならない社会体制
@ つまり政権に反対であることはもちろん、無関心であることすら弾圧の対象となる社会体制
@ 当局などから政治について問われたら、当局が指示した通りの「政治への関心」を答えなければならない社会体制
@ 共産党推薦候補のみが立候補する選挙に投票に行くことが、五人組連帯責任により義務ずけられている社会体制

@ つまり支那とか北朝鮮(ギネスブックによると投票率99%以上)みたいな社会体制。

 など、全くろくでもないシロモノだ。

 政治に関心を持たない自由もまた、極めて重要な政治的自由の一つなのだ。

余談:左翼が情熱を燃やす文化破壊の一つ「元号ハンタイ」[執筆日:H13/1/17][病理:文化弾圧統制体質]

 共産主義国家では、あらゆる伝統文化が迫害弾圧滅殺対象となる。支那や旧ソ連では、奇怪なイデオロギーを基準に「反動的」などのレッテルを貼られ伝統的な文化や宗教や文化遺産が次々と破壊されてきた。もちろん日本のサヨクも伝統文化の破壊が殊のほか好きだ。
 昨今左翼が情熱を燃やす文化破壊の一つが、「元号ハンタイ」である。朝日新聞のように「大相撲2001年場所」などと奇怪な言い換え表記をする異常者もいる。
 サヨクの元号反対論の要旨とは↓こういうものだ。

サヨクの元号否定論:元号は日本のみで用いられているものなので使うべきでない。「世界」ではキリスト教暦が用いられているので、それを使うべきだ。
 ↑これは、前提、結論に至る経緯それぞれが完璧に間違っている。

前提の間違っている点:「世界」はキリスト教暦を用いていない

 頻繁に指摘されることだが、日本人が「世界」なる言葉で表現する地域には、おおむねイスラムもアフリカも南米も入らない。おうおうに欧米キリスト教圏である。(サヨクの場合は支那や北朝鮮)
 世界で五億人以上いるイスラム教徒はおおむねイスラム暦を用いる。仏教暦を使う仏教国も多い。革命暦のような暦を使う国も多い。
 世界でキリスト教暦を使う国は要するにキリスト教圏である。キリスト教徒だからキリスト教暦すなわち「主、イエスキリスト生誕の日より何年目」という年号を用いるわけだ。年号を何気なく用いる多くの日本人の多くは、こう指摘されてはじめて年号の宗教的意味に気が付く。
 世界最大の宗教はキリスト教である。しかし世界の圧倒的多数は、非キリスト教徒である。世界は何らキリスト教暦を用いていない。欧米のみを「世界」と呼称する体質の持ち主でないなら、こう結論づけるのが普通だ。

結論に至る経緯の間違っている点:「世界」が用いているという事柄が、郷土文化破壊の理由にはならない。

 そもそも年号を含み文化とは多種多様であってかまわない。単一の文化に統合される必要などない。
 要するに「民族文化を保守するべきかどうか。」という問いかけにつきる。「保守すべき」という前提に立てば、「年号を大切にするべき。」という結論になる。「保守する必要がない」という前提に立てば、例えば元号否定論も戦前における朝鮮系日本人への日本人化政策も肯定される。
 郷土や民族の多様な文化を政治思想の枠組みで評価し壊滅しようとする発想。まさしくこの発想こそが、世界中の左翼全体主義体制において文化破壊政策が繰り返されてきた要因に他ならない。今現在も共産支那はチベットの文化を「遅れた野蛮な文化」と決め付け徹底した破壊を行っている。

 サヨクの元号反対。これはすなわち十字軍など異文化迫害布教宗教キリスト教に始まり、文革支那や旧ソ連など文化弾圧共産主義国家が受継ぎ、仏像破壊タリバンとサヨクが今に伝えるキ印の発想から生まれたものなのだ。

余談:文化力とは国力[執筆日:H12/1/30]

 文化には経済や軍事に負けず劣らず国際的な影響力がある。日本はそれを高めなければならない。優れた文化は国際的な力となりうる。

1: ナチスドイツとアメリカのイメージの差異を生み出したのは映画

 読者諸兄の中には、ナチスドイツ軍というとワルモノで、アメリカ軍というとそれと戦う正義の軍隊であるかのような考えをもつ人も多いに違いない。
 実は、第二次世界大戦当時のアメリカ政府による人種差別的な暴虐ぶりはナチスドイツに匹敵する。

ナチスドイツ:ユダヤ人を強制収容所に隔離
アメリカ  :日本人を強制収容所に隔離

ナチスドイツ:ガス室で大量の非戦闘員であるユダヤ人(数百万人と言われる)を殺害。人体実験的な行為もあったという。
アメリカ  :原爆投下や空襲などにより大量の非戦闘員である日本人(数百万人と言われる)を殺害。原爆投下には人体実験的な意味もあったという。

ナチスドイツ:ユダヤ人や有色人種への人種差別政策が基本政策
アメリカ  :有色人種諸国への植民地支配継続が基本政策

 特定民族の人間を強制収容所に隔離するなどという狂った政策。筆者は近代以降これら以外の例を知らない。(日本では逆に、関東大震災による暴動から、朝鮮人を日本軍が保護した例がある。)
 人種差別に根差したとんでもない政策を行ったという点はほとんど同じなのに、なぜナチスはワルモノでアメリカはセーギというイメージがあるのか。

 それは主にアメリカ映画による宣伝の成果である。

2: 文化による宣伝戦略の重要性

 アメリカの娯楽映画は実に面白い。映画のマーケティングも優れている。そういった面白い映画により、「ナチス=ワルモノ それと戦うセーギのアメリカ」という構図を長年世界中で喧伝した成果に他ならない。
 「戦場にかける橋」というアメリカ映画(日本軍が、イギリス兵捕虜を強制的に働かせて橋を架けさせるという内容)がある。これを史実と信じる人もいるかも知れないが、全くの作り話と言われている。アメリカはこういう作り話を世界で宣伝流布したわけだ。もちろん映画だから作り話はかまわないという言い草は、ある程度正しいことは認める。

 文化の影響は計り知れない。
 日本は伝統文化を保守すると同時に、世界で通用するような新しく面白い娯楽文化を創作する国となる必要がある。中には既に世界を席巻している日本の文化も多い。コンピュータゲーム、漫画アニメーションなどだ。
 ただ民間にまかせるのみでは、必ずしも国益となるような文化が作られるとは限らない。

3: 制作費用を政府が補填し日本映画を復興させるべき

 そこで筆者が提言するのは、斜陽となってい久しい日本娯楽映画界への製作費用補填である。費用補填の代わりに日本の国益となる映画造りを奨励するのだ。それはもちろん「支那=ワルモノ、アメリカ=ワルモノ それと戦うセーギの日本」という構図の映画だ。もちろん、それは徹底して面白いものであるべきだ。
 支那あたりは喚きたてるだろうが無視すればよい。とにかく面白ければ人々は見る。徹底して娯楽として楽しめる映画にするべきだ。
 戦艦大和が幕末にタイムスリップしてペリー艦隊を撃破する内容などどうか。

 これは上で記した「何かの政治宣伝を行っているかどうかで文化の善し悪しを判断する」にある程度該当するが、なんらかまわない。善し悪しを判断した結果弾圧するというものではなく、特定映画を奨励をするこということだからだ。これは特に問題のある政策ではない。
 支那の映画は全部国策映画だし、アメリカもまた政策的に映画界を補佐している。長い伝統を持つ映画に関する学部の存在する大学もある。
 アメリカがこういう国策を行い続けた結果、アメリカ映画界は潤い、アメリカの好イメージ宣伝におおいに役立ちアメリカの国益にもなり、人々は楽しい映画を見ることもできた。あらゆる人間が得をしたのだ。ただしドイツ人や日本人は悪宣伝をばらまかれ損をしたが。
 一方マヌケな支那の映画など誰も見ない。この有り様は競争のない社会の宿命だろう。日本映画のほうが百倍も面白い。
 支那政府や韓国政府などは日本文化を国内で紹介することに強い制限をかけている。この制限を取り払ったら日本の大衆文化(歌謡曲、演歌、コンピュータゲーム、テレビ番組、服飾、漫画など)一挙になだれ込み文化植民地状態になることを知っているのだ。かつてアメリカから、なりふり構わず文化流入させた日本同様に。
 すばらしい文化を生み出す国に人が好イメージを持つのは当然だ。支那政府や韓国政府は、国民が日本の文化に触れて日本に好イメージをもつ結果になることを恐れているのだ。政府への不満を日本への憎しみに転化させることが彼らの内政だからだ。特にチベットなど少数民族を弾圧支配する支那では。
 一方、戦後野放図にアメリカ文化を流入させた日本では、ジャズの4ビートで頭がスイングしたあげく、「日本は戦後アメリカから民主主義を与えられた」という、アメリカ占領軍から刷り込まれたフレーズをリフレインする大橋巨泉氏みたいな人物を生み出した。
 韓国人は剣道や茶道や寿司や盆栽を韓国発祥などと常軌を脱した妄想を世界中で喧伝している。韓国人がこういう狂った文化業績泥棒に精を出す理由もまた、文化というものの影響力が多大だからだ。ウオークマンのソニーが韓国企業であるとか、寿司の発祥が韓国であるとかいうデマが喧伝されれば外国人が韓国人を見る眼も違っている。

4: 総括(文化力とは国力)

 ナチスは崩壊したがアメリカは存在し、今なお世界中で主に戦争による悪辣な殺害を続けている。にもかかわらず世界諸国からの反対はそれほどでもない。
 これは単なる軍事経済上の影響のみではなく、映画など文化的な影響にもよる。アメリカの強みは単に軍事経済のみにあるのではなく、文化的な影響力(映画、ジーンズなど服飾、ジャズやミュージカル、コカコーラや自動車、コンピュータソフトなど)にもあるのだ。

 我が国も世界に通用する強大な文化国家となる必要がある。軍事や経済はもちろんのことだが。

余談:日本文化業績泥棒に精を出す韓国人[執筆日:H13/12/27][執筆対象:鮮人][病理:文化業績泥棒]

 韓国人は剣道や茶道や寿司や盆栽を韓国発祥などと常軌を脱した妄想を世界中で喧伝している。しかもその妄想が一部の異常者の間のみではなく、韓国内ではある程度公的な見解となっているのだ。一時柔道も韓国発祥ということにしようと企んだが、オリンピック招致で有名な柔道の開祖嘉納治五郎の業績があまりに明瞭であるため挫折したとも言われる。また韓国人の中には、ホンダやソニーを韓国企業だなどと外国で喧伝したりする者すらいると言う。
 おまけに日本人にとっては荒唐無稽であり大法螺であることが一目瞭然であっても、外国では時に堂々とまかり通ったりする。欧米や中東や第三世界の人々にとっては支那や日本や韓国の違いすら明瞭ではない程に東洋文化には疎いためだ。(もちろんこれは無理の無いことだ。例えば筆者を含む多くの日本人もまた、イランとイラクとヨルダンの文化的な違いなど皆目判らない。)

 官民をあげての日本文化業績泥棒をする韓国人連中に感じるのは、吐き気がするような卑しさだ。韓国人にしてみれば、剣道や盆栽や茶道など韓国発祥などと世界中で喧伝し韓国人のイメージアップを行い、同時に日本人へのイヤガラセを行い溜飲を下げようとしているのだろう。
 こういう根性は、イヤガラセをして溜飲を下げようとする品性根性以前に、本当の意味での自国文化への誇りなど全く感じられない点で卑しさ満点だ。

1: 本当の意味での自国文化への誇りがナシだから文化業績泥棒に精を出す

 そもそも文化業績泥棒に精を出すという行為自体が、盗む相手国の文化的優越性を認めることになる。例えばフランスには、紅茶やラグビーやゴルフをフランス発祥だなどと捏造し懸命に喧伝するような異常者はいない。国粋主義的傾向が顕著でイギリスへのライバル意識剥き出しのフランス人だが、そこまで狂っていない。
 そもそもそんなことに血道を上げること自体が自国文化の貧しさを証明するものだ。「わが国は他国の文化業績を盗まなければ、自国のすばらしさを喧伝できない国だ」という自白になる。自国に誇るべき文化があるなら、盗まなくともそれを喧伝すればいいだけのことだからだ。
 フランスにはルイ王朝時代に培った揺るぎ無い重厚な文化がある。文化的自信があるがゆえ、そういう卑しいマネをする必要がないわけだ。例えば、「ぶどう酒はフランス発祥」などと馬鹿げた喧伝しない。どこが発祥であろうが、ぶどう酒がフランスで大きく発達したことを疑うものなどいない。

 世界史においてあらゆる嘘捏造が行われてきたし、支那あたりは今現在も政治的な戦略として捏造宣伝を計画的に行っている。その中にあって、朝鮮人ほど卑しい宣伝をする民族を知らない。
 古今東西あらゆる極端な民族主義が台頭する場合があったが、それはあくまでは自民族文化を誇るものだ。ナチスドイツのような極端な例であっても、優越性を喧伝する対象はあくまで自民族の文化だ。そしてユダヤ文化については劣等性を喧伝し迫害した。もちろん、韓国も日本文化をマネて自国発祥などと喧伝する以外に、迫害弾圧もまた大量にしてはいるが。
 ナチスドイツが「ユダヤ教はドイツ人の考えたもの」と懸命に嘘宣伝することで、自民族の好イメージ宣伝を行い同時にユダヤ人へのイヤガラセを行う有様を想像してみればいい。そうでもしなければ、自国自民族の好イメージ宣伝ができない有様、哀れさに涙を誘う。もちろん本物のナチスはそこまで卑しくはなかった。

2: 支那韓国の捏造の看破に時間を浪費させられる日本の学者

 こういう異常な文化業績泥棒に精を出す底なしに卑しい国がすぐ隣に存在することに、やりきれない思いがする。こういう卑しい国がすぐ隣に存在するために、日本の何人かの学者は全く無意味な時間を浪費させられるハメになっている。隣国の連中が次から次へと行う捏造宣伝や反日宣伝を監視し、その不当性を看破し喧伝するなどという、何の創造性もない底なしに無意味で馬鹿げた作業。何人かの日本人学者は、こんな馬鹿げた作業にヒーコラ時間を費やさねばならない状態にさせられている。
 韓国や支那が行う反日捏造宣伝。それを放置すれば、日本にとって極めて不利な状態になる。それを監視し対処するべき外務省は、支那や韓国の腰巾着であり、面倒なことはごめんだと開き直りそういう悪宣伝を放置するのみだ。結局日本の学者なりが、その不当性を看破し喧伝する作業を行うしかない。
 そういう無意味な作業に、本来の研究をなおざりにさせられていたりする場合もあろう。狂人の相手をするのに時間を取られ、本来の創造的な研究ができなくなっりする場合も。しかも相手は狂人である。理性的な話は通じない。時にありとあらゆる異常な嫌がらせが行われる場合もある。

 ほんとうにやりきれないことだ。
 日本人学者をこういう馬鹿な作業に泥濘させることで、韓国人や支那人はしてやったりと得意なのだろうが。

 筆者はこういう日本の学者に敬意を感じる。こういう何人かの学者の自己犠牲的な努力があって、支那や韓国やその腰巾着であるサヨクが行う反日悪宣伝のいくぶんかが抑止されているのだ。


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