サヨクは徹底して批判されるべきだ。戦後積み重ねてきたサヨクの罪はあまりに深い。サヨクはサヨクであるという点にはいかなる価値も無い。ひたすら有害であった。
ただ、サヨクであるという点のみをもってその人間の全てを否定するべきでない。サヨクという存在は人間性の全てが腐っているのではなく、サヨクという腐った部分がある人間と考えるべきだ。
この意見は「サヨクが重ねる罪業を放置することが慈悲なのではない」に記した内容と矛盾すると考える読者も多いに違いない。そこでは戦後のサヨクのおっさんおばはん相手には以下のセリフがふさわしいと記している。
「君たちサヨクのおっさんおばはんは、敗戦後以来、とにかく一貫して人間が行いうる全ての卑劣を行ってきました。何一つ人間として価値はありません。ただひたすら愚劣でした。」
「あじあショコクに与えたカナシミ」とやらを捏造し盲信し吊し上げる快感に取り付かれた汚物連中相手には、これ以上ふさわしいセリフはない。
しかし相手や場合によりけりだ。こういうセリフを吐いていい場合とそうでない場合がある。
サヨクと言えどもひたすら24時間サヨクであるわけではない。ひたすら寝ても覚めても旧日本軍のハンザイとやらを盲信して呪い続ける病人ではないはずだ。むしろそうでない時間が圧倒的に多いに違いない。
サヨクであろうがなかろうが、
* 長年顧客の需要をかんがみた誠実な仕事ができているのなら、それだけでその人物は尊敬に値する。
* 子供を産み養っているのであるなら、それだけでその人物は尊敬に値する。
* 親孝行であるなら、それだけでその人物は尊敬に値する。
我々は以上の根本的な常識感を見失ってはならない。思想に狂って普通の常識感を見失うのはサヨクで十分である。
特定のイデオロギーでもって全人格を否定する発想。これは支那政府などサヨク全体主義の発想である。
支那などサヨク全体主義体制においては、支那政府と異なる思想の持ち主は全て拘留され拘束され時に殺される。思想をもって全人格を否定する発想だ。
日本のサヨクの発想も同様である。他人の特定の悪い側面のみをデフォルメして糾弾する発想。大東亜戦争の悪い面のみをでっちあげで糾弾する発想などはその典型例である。
特定のイデオロギーでもって全人格を否定する発想。これはサヨク並みの外道の発想であり、我々国民はサヨク同様にならないように戒める必要がある。
サヨクという側面は、紛れも無くその人間の腐った部分と断じていい。しかしそうでない部分も多いはずだ。もちろん尊敬に値する部分があるからと言って、サヨクの部分がなんら許されるわけではない。サヨクである部分は誰であれ徹底して批判されるべきだ。
要はサヨクであり誰であり人を見て判断するべきだ。単にサヨクであるという点のみをもって人間性全てを否定するのではなく。サヨクは全てが腐っているのではなく、サヨクという腐った部分のある人間だと解釈するべきだ。
とはいえ、中にはサヨク新聞記者や一部サヨク教師のように仕事中もプライベートも一日24時間一貫して腐りまくりという人間もいるだろうが。
簡単に記すと、こうである。
サヨクであるということは、思い上がっているということであり不誠実であるということ。思い上がりや不誠実さは徹底して否定されるべき。しかしそうでない部分も多いはず。よって人間性の全てを否定するべきでない。ただサヨクが特定の事柄をもって全てを否定する狂気(大東亜戦争の冤罪捏造や土下座要求など)に走り出した場合、我々国民も戦後サヨクの全てを否定するセリフを吐いて因果応報を思い知らせることもまた必要ということだ。