「恐怖政治下においては、当局に知られる可能性のある状況下での政治的な事柄に関する民衆の証言など全く信憑性が無い。」という筆者による指摘。実際に恐怖政治下で暮らす人間の身になれば、当然のこととしか言いようがない。これに対してサヨクはこう言うだろう。
「証言が疑わしくとも、南京大虐殺が無かったことの証明にならない。」
馬鹿ではないか。そもそも「南京大虐殺」を盲信した理由が「証言」にあったはずだ。「証言」が疑わしいのであるなら、「南京大虐殺」そのものも疑わしいということになるのだ。
「証拠写真」の嘘は既に大量に証明されている。その上「証言」が疑わしいのであるなら、少なくとも「南京大虐殺」があったと断定できないはずだ。
「君は人殺しでないとは断定できない。よって君は人殺しだ。」などと決め付けられるようなマネをサヨク自身がされたら嬉しいのか。「疑わしき?を罰する。」という発想である。
こういうサヨクにある冤罪捏造吊るし上げ体質は支那など左翼全体主義体制に共通する体質である。旧ソ連スターリン時代や文化大革命においても「旧体制の手先」と疑われた人物は何一つ証拠なしに吊るし上げられ次々と殺された。
「なかっとは言えない。」→「あった。」という論理。サヨクには、旧ソ連スターリン体制から続く恐るべき冤罪捏造吊るし上げ体質が今なお脈々と受け継がれているのだ。