ダブスタ体質とは公正性の欠如から生じる。
自分の身内であるからとか思想的傾向が同一であるからとか地域の有力者であるからとかにより、ある規範を適用したりしなかったりする体質の人間。こういう者がある組織の権力者となれば、その組織はその権力者に私物化される。
ぬけぬけとダブスタをさえずる者に権力を与えてはならない。何はともあれ権力者に必要な要件は公正さなのだ。
公正さの欠如した権力者をわかりやすく例示する。例えば↓こういう教師だ。
「キミはニホンのセンソーハンザイを告発する意識の高い立派な子だ。百点をあげよう。」
「キミはニホンのセンソーハンザイについて疑問視する悪い子だ。0点だ。」
読者諸氏が学生なら、↑こういう教師に学びたくはあるまい。試験結果を公正に評価せずに、教師と思想的傾向を同じくするかどうか(要するに好き嫌い)で成績を決める教師に。
公正さとは権力者にとって最も重要な要件なのだ。
そもそも法治国家の目的は公正な(平等ではなく)社会の実現にあると言い切ることができる。法を定め、その法を地主であっても小作人であっても大金持ちであっても浮浪者であっても名士であっても無名の者であっても官僚であっても民間人であっても政府関係者の身内であっても他人であっても同等に適用することで公正な社会を実現することにある。
ある裁判官がある芸能人の犯罪について「社会的影響が大きい」などと言って重刑に処していた。とんでもない話だ。「社会的影響」なるものを裁判官ごときが考慮する必要は無い。芸能人だからと言って特に重くする必要も軽くする必要も無い。判例にもとずき公正に裁けばいいのだ。だいたい、その芸能人は公共媒体による報道の繰り返しにより社会的制裁は受けていた。わが国にこういう公正でない裁判官の存在することに、やりきれなさを感じる。公正でない裁判官になど存在意味は無い。
最近(平成十三年三月)の教科書外圧騒動に見る、↓こういうあからさまなサヨク(社民党)のダブスタ。
@ サヨク偏向に満ちた家永教科書→文部省の検定は表現の自由を侵すものでありハンターイ
@ 新しい教科書を作る会の教科書→文部省は検定を通すなあ
このわかりやすいダブスタぶりはほとんど漫画だ。この程度の論理的整合性をとる知力も無い言い草が、サヨクマスコミや大江健三郎などサヨクの間で、わが国ではある程度まかり通ってしまうことに毎度毎度やりきれない気分がする。底なしの馬鹿だ。
↑こういうダブスタ連中にいかなる権力も与えてはならない。↓こういう社会体制になりかねない。
@ 共産党大幹部の身内の犯罪→反動勢力のでっちあげだあ。無罪とする。
@ 共産党の政敵による同様の犯罪→許しがたい大罪だあ。極刑とする。
サヨクが愛する共産支那はまさに↑こういう社会体制である。
共産支那のように、共産党大幹部もしくはその身内であるなら、訴えられず裁かれず労せずして政府中枢の役職を得て公財産を私物化できる不公正極まりない社会。そういう社会を嫌うのであるなら、ダブスタサヨク政治家そして官僚を政界から一刻も早く権力の座から駆逐する必要がある。
そして今、文部科学省にその公正さが試されている。「キンリンショコク(要するに韓朝支トリオ)の影響」なるものを「考慮」し、特定教科書のみを検定不合格にするなどという不公正極まりない暴挙を行うかどうかが。
万一政府文部科学省が共産支那の恫喝に屈し、政府組織の存在意義とも言える公正さを投げ捨てるなら、自民党にとって取り返しのつかない結果になるだろう。間違いなく土下座朝貢外交にぶちキレ寸前の納税者国民や、自民党支持保守層の票は更にごっそり他政党に流れていくだろう。それ以上に国民にとって取り返しのつかないことになるのだが。
ダブスタをさえずる者に権力を与えてはならない。ダブスタ妄言の要因が思想的偏向にあろうが論理構築力の欠如にあろうがその両方であろうが。
権力者に最低限必要なのは何はともあれ公正さなのだ。