ある程度閉ざされた場所での罵倒や叱責の繰り返しによる「人格の崩壊→再構築」という手順による人格改造(すなわち洗脳)は、必ずしも間違ったやり方ではない。例えば、その人格そのものがずばぬけて社会性の欠如した身勝手なものである場合だ。
具体的には以下のような「洗脳」は肯定される。
人はそもそも生まれながらに身勝手なものだ。生まれたばかりの赤ん坊は全く他人の事を気遣わない。所かまわず泣き叫ぶ。大小便を垂れ流しその処理をさせる。食わせろ食わせろと要求する。こういった身勝手の限りをつくしながら、なんら自省しない。朝昼夜一貫して自分の欲求のみに目を向けなんら他人を気遣わない。もちろん赤ん坊とはそういうものであり、それでいい。
そこで教育の出番となる。成長度に応じて他人との関係を理解させ自らを相対化させ、他人を気遣う社会人としての常識を身につけさせるのだ。もちろんそれにはある程度閉鎖された空間での罵倒や叱責や時に暴力を伴う場合もあろう。要するにそれは「洗脳」である。
「洗脳」により人はある事柄を頭ごなしに信じるようになる。「自分ははた迷惑な事をするべきでない」「自分は誠実であるべきだ」などという事柄を無条件に頭ごなしに信じる人間になにか害があるだろうか。全く無い。益のみがある。
刑期が著しく短くなる代わり、教官により恐るべき罵倒と叱責に満ちた猛訓練が繰り返されるプログラムがアメリカにある。言うならば赤ん坊同様の身勝手な受刑者の人格を破壊し、社会性のあるまともな人格に改造するプログラムだ。本人の希望により入ることができ、訓練に耐えられず脱落した者は即座に普通の刑務所生活に戻されるものだ。
テレビで見たが、それはすさまじい罵倒と叱責に満ちた訓練である。入所した囚人はまず坊主頭にされる。教官がその切った髪を床に捨てる。そして囚人に自分の髪の毛を拾いバケツに入れさせる。また教官はそれを床に捨てる。囚人はまた拾う。まずそれの繰り返しだ。拾う作業をもたもたしていると元の刑務所に逆戻りだ。囚人は懸命に這いずり回って自分の髪の毛をバケツに入れる。その間も罵倒と叱責が続く。こういった儀式が延々と続くのだ。
一般に米国の前科者の再犯率は70%以上とも言われるが、そのプログラムを満了した者は再犯率がなんと20%未満だという。見事な成果である。
筆者はこのプログラムは特に青少年犯罪者の矯正に有効だと思う。日本でもぜひ取り入れるべきだ。
このプログラムで行われていることは明らかに洗脳であり人格改造だが、なんら間違っていない。「自分の利益のためなら盗みも殺しもOK」という腐った人格を破壊し「盗みや殺しを行うべきでない」という人格に再構築するものだからだ。
逆に以下のような洗脳は明らかに異常であり行うべきでない。
共産支那政府が支那人に行う洗脳やサヨク教師が学生に行う洗脳。「物事を多面的に評価し思考するべき。」という人格を完全に破壊し、「共産党政府の問題点を全く思考せず盲信する。旧日本軍や日本政府については悪しき情報のみを無条件に盲信し、無条件に罵倒し不信を抱く。」という人格に再構築するもの。
共産支那政府が戦犯管理所で元日本軍兵士に行った洗脳。「嘘をつくべきでない。祖国日本への愛国心を大切にするべきだ。」という人格を完全に破壊し「共産党政府への盲目的な感謝と忠誠心。その忠誠のためなら嘘ついても戦友に冤罪を着せてもOK」という人格に再構築するもの。
英会話教材の販売や、一部新興宗教や自己啓発セミナ−で行われている洗脳。若者をたくみに事務所などに誘導し、集団で取り囲み物品を販売するなど。
これらの洗脳は明らかに異常なものだ。
「時に洗脳を行うことも必要。」などと言うと「まあ恐ろしい」などと眉をひそめる人もあろう。しかし極端な例だが「自分の利益のためなら盗みも殺しもOK」という腐った人格は、大切にするべき人格だろうか。筆者は破壊するべき人格だと思う。そういった腐った人格を洗脳により破壊し「盗みや殺しを行うべきでない」という人格に再構築するほうが、本人にとっても社会にとっても望ましいことだと思う。
洗脳もまた手法であり技術である。科学技術や催眠術などと同様、手法や技術そのものにはなんら問題は無い。いかに使うのか、何を目的に使うのかが重要となる。
洗脳という行為自体は間違っていない。どのような人格からどのような人格に洗脳するのかが重要なのだ。