アンチ国家のサヨクは「共同体」なる言葉遊びを好む。その「共同体」なるものの説明を聞いてもどうにも釈然としない。おおむね地方自治との違いが不明瞭であったりする。結局、組織機構の定義でなく組織構成員の「政治意識」とか精神論みたいな話になったりする。
なぜ、サヨクが「共同体」なる用語での言葉遊びに興じたがるのか。それは、さも新しい政治体制を目指しているかのような気分に浸るためだろう。
国家はワルイモノという刷り込みを受けた人間。その人間が人は集団を形作らないと生きていけないという現実に理論武装するために、内容の無い「共同体」という国家と異なる呼称を作り上げて、あたかも新しい政治体制を目指しているかのような気分に浸ろうとしているのだろう。
かつて左翼は、社会主義とかコルホ−ズ(旧ソ連などにあった集団農場)とかいう言葉を用いた遊びに興じた。皆がコルホーズに加わりコッカのシハイから脱却する有様を夢想したわけだ。しかしもうそんなシロモノを前面に押し出しても人々の支持など得られる時代ではない。集団農業は悪辣極まりない搾取と怠慢と飢餓を生み出した。
そこで「共同体」なるものが言葉遊びの代わりとなった。
そもそも日本では移転は認められている。また集団の構成も認められている。暮らしたい人間が暮らしたい場所で暮らす「共同体」なるものを形作ることは今すぐにでも可能なのだ。そして現実にそれを実行した存在がある。ヤマギシ会やオウム真理教だ。
そこに住めば全てが解決すると思うのだが、共同体幻想サヨク自身は全然その「共同体」に住むつもりはないようだ。また既存の「共同体」が気に入らなければ自分で作ればいいだけなのだが、全然作るつもりもないようだ。結局そこがサヨクなのである。
社会主義を賛美しながら、自分自身は支那など社会主義国に移住しないサヨク。支那を賛美しながら、支那には移住しないサヨク。サヨクとはそもそもそういうものなのだ。
要するに無責任極まりないハンタイセー言葉遊びをやりたがっているに過ぎないわけだ。