記者という存在には、普通の国民にはない桁外れの政治的権力が認められている。
1:記者会見を政治家に実質的に行わさせる権力(モンダイハツゲンを煽ることなどにより)
2:記者会見場で、内閣総理大臣を含む政治家に質問をする権力
3:政治家が話した内容や行動を、好き放題に編集歪曲して、国民に垂れ流す権力
この権力は、あまりに圧倒的に強大なものだ。政治を好き放題にできる権力とすらいいうる。現に公共媒体は、過去にもあらゆる扇動歪曲報道により、何度も自由自在に政治家の首を挿げ替えてきた。田中角栄氏もまた、共産党と公共媒体と官僚の連合軍に敗れたと言われる。公共媒体の権力は、時に内閣総理大臣以上にすらなるのだ。
普通の国民が上記2:の権力を持つためには、議員に立候補して票を得て当選し議員になる以外にない。そして予算委員会などで質問をする機会をようやく獲得できる。もちろん、これは正しい制度だ。国民全員に総理大臣に対して質問をする権利を与えれば、総理大臣は質問への返答のみを繰り返す職務になるだろう。一日何十万件以上もの質問に。
政治家への質問権とは、それだけ重大な意味があるのだ。
ところが、この政治家質問権を、何一つ選挙の審判を受けずに一足飛びで獲得できる職種がある。記者など報道陣である。しかも、彼らは2:のみならず1:、3:すら思うがままに行うことができる。国会議員ですら、そんな権力はない。
特定の職業であることを理由に、一般国民以上の政治的権力を得る社会体制。これは絶対に間違っている。百姓や大工や商店主や板前や事務員には何一つ与えられていない政治的権力が、報道関係者のみに与えられている現状。どう見ても明らかに差別である。
特定の職業にのみ政治的特権が与えられる政治制度。そういう政治制度とは、貴族制である。貴族は選挙その他、国民による審判を何一つ受けずに、政治的権力を得る。いうなれば、日本は報道関係者という貴族の存在する報道貴族制社会なのだ。
報道関係者は政治家への記者会見を、「国民を代表して政治家に質問をしている。」などと表現する。笑止千万であり思い上がった言い草だ。
国民の代表は政治家だ。政治家は、国民からの多くの投票を得て、国民の代表者となった存在だ。報道関係者は、一体何万票を得て記者会見場に来ているのか。一票たりとも得ていないはずだ。
報道関係者などは、ただの一国民であり国民の代表でも何でもない。思い上がるな。政治家が国民の代表者なのだ。
上記1:〜3:の特権を報道陣から剥奪し、国民に取り戻す革命が必要だ。報道特権貴族を打ち倒す革命が。そのためには、以下が有効だ。
1:、2:の特権を打ち砕く方法
簡単だ。政治家が記者会見をやめればいいのだ。テレビの存在する現代では、記者会見などもう必要ない。テレビで訴えれば国民の耳に届く。それで十分だ。
内閣総理大臣など行政責任者の政治家に問う権利があるのは、議員だ。内閣総理大臣など行政責任者の政治家は、議場において議員の質問に答えればいい。それを多チャンネルテレビで放映すればいい。
しかし記者になど政治家に質問をする資格などあってはならない。国民の審判を受けていない存在に、一般国民を凌駕した政治的な特権を何一つ与えるべきでない。
もちろん、議場の記者席も不要だ。議場にテレビカメラが入り、多チャンネルテレビで放映。記者はその映像を見て記事にすればいい。
ただ国政の場合、現状では野党議員が内閣総理大臣と質疑応答する機会は予算委員会程度しかない。だから野党議員も予算委員会で予算と直接無関係な質問をせざるえなくなる。公的な質疑応答の機会がそのときにしかないからだ。内閣総理大臣は定例記者会見などやめて、そのかわり定例議員会見のようなものを行うべきだ。
もちろん野党からの質問は記者など比較にならない程辛らつなものになるだろう。内閣総理大臣の負担はある意味増えるが、国民の代表者である議員の質問に答えることも極めて重要な職務だ。やってもらうしかない。議員ごときをあしらえないようでは内閣総理大臣の資格はない。
3:の特権を打ち砕く方法
3:の特権を打ち砕く即時的な対処はない。即時的な対処をあえて記せば、支那のような言論の自由の弾圧以外にない。もちろん筆者は報道陣への弾圧を肯定しない。無視するべきだとは考えるが。
3:を打ち砕くには、ネットの普及による、公共媒体批判情報の提供と公共媒体の相対的な価値の下落が有効だ。要は全国画一金太郎飴テレビとか販拡金太郎飴新聞とかを人々が見なくなり、各自がネットワークなどから詳細で個別的な情報を得るようになればいい。また、そうなるだろう。
即時的ではないが、ネットワークの普及により、公共媒体の価値が相対的に低下するという結果に間違いなくなるだろう。
今現在の単一情報が国民全員にもたらされる状況が間違っているのだ。国民全てが同じ文章、同じ画面、同じ情報を得る。実は、こんな社会ができあがってから、百年も経過していない。公共媒体の発達していない過去のほとんどの時代では、人々は地域や階級や職業により、異なる文章、異なる文化、異なる情報を得て暮らしていた。それが正常なのだ。国民全員同一の公共媒体情報を得て操られる今が全体主義じみた異常な社会なのだ。
ネットワークの普及により、再び正常な状態に戻る。今度は階級ではなく、嗜好や職業により、異なる文章、異なる文化、異なる情報を得て暮らす社会に。
多様で個性的な文化をもつ国民が増えることは、結構なことだと思う。重厚な文化が造られる。文化力とは多様性に他ならない。
なぜ、記者に貴族的な特権が認められてきたのか。それは、国民が議場での議論などを知るには、新聞などの報道媒体を経由するしかなかったからだ。国民全員が国会議事堂に立ち入り傍聴するなど物理的に無理だ。
そこでやむなく記者に特権的な立場を認めてきたわけだ。
しかし、現代はテレビ放送が存在し、更に多チャンネル時代になろうとしている。つまり、実質的に全国民が議場で傍聴できるようになろうとしている。
もう、記者に貴族的な特権を与える根拠はなくなった。害しか生み出さない。
いうまでもなく国民は政治的に平等であるべきだ。繰り返すが、特定の職業であることを理由に、政治的特権が与えられる社会など間違っている。報道関係者という貴族を我々国民と同様の権力に引きずり落とし、より完全な民主制社会を作り出さねばらない。