実際にどうなっているかより、何が書かれているかとか何を話したとかにこだわるのは、サヨク一般の特徴である。
紙(憲法)の上の規定:天皇による政治判断を認めるいくぶんかの規定が存在する。
実態:天皇自身がほとんど政治的な判断をされていない。
サヨクは戦前における↑こういう状態を「天皇主権」とまで強弁する。
こういう強弁をする政党や政治家が万一政権を獲得したなら↓こういう状態を「国民主権」と強弁をすることもありうるだろう。
紙(憲法)の上の規定:国民による政治判断を認めるいくぶんかの規定が存在する。
実態:国民自身には、ほとんど政治的な権力が認められてない。
戦前を「天皇主権」とまで強弁する政治家であるなら、我が国を↑こういう社会体制にしておいて、「国民主権」とまで強弁することも当然ありうる。例えばサヨクが愛する支那や旧ソ連などだ。こういった国々では憲法上では「国民主権」であり「言論の自由」「信教の自由」「集会の自由」が保証されている。しかし実態は完全に「共産党党首主権」であり、「言論の自由」「信教の自由」「集会の自由」など全く保証されていない。
主権者の定義A「憲法上でαに対し、いくぶんかの権力が規定されていればαは主権者と定義できる。αに実際に三権全てを行使できる制度があるかどうかとか、また実際に三権の行使をできるか、また行使したかどうかなどは、主権者の定義とは無関係だ。」
主権者の定義B「αに実際に三権を行使できる制度があり、また実際に三権の行使をできてこそαを主権者と定義できる。」
定義Aの立場に立ってはじめて、戦前を「天皇主権」と結論ずけることができるのだ。
現在の教科書を含むサヨクの「第二次世界大戦は民主主義と全体主義の戦い」とか、「戦前は天皇主権」という総括は、ある意味一貫している。定義Aにもとづくものだという点で。
「第二次世界大戦は民主主義と全体主義の戦い」との言い草は、要するに日本を「全体主義」と規定し日本の敵国だった旧ソ連を「民主主義」と規定するものだ。旧ソ連の社会体制を「民主主義(国民主権)」と規定するには、定義Aのαに「ソ連国民」を代入した前提に立ってこそ成り立つ。「戦前は天皇主権」との言い草は、定義Aのαに「天皇」を代入した前提に立ってこそ成り立つ。
もちろん一般的な「主権者」は定義Bのものだ。普通の民主主義者なら、当然前提Bの立場に立つ。よって、「第二次世界大戦は民主主義と全体主義の戦い」とか、「戦前は天皇主権」という総括を嘘八百だと即座に理解できる。
要するに、はっきり言って「第二次世界大戦は民主主義と全体主義の戦い」とか「戦前は天皇主権」などという総括は、「自分は定義Aを支持する立場に立っている。自分はまともな民主主義者ではない。」という自白に他ならないのだ。
結局、サヨクは「確信犯的に民主主義を瓦解させプロレタリアート独裁を目指す反民主主義者(筆者の言う上級サヨク)」か、「それに騙され踊る阿呆(筆者の言う下級サヨク)」のいずれかに他ならないということだ。
更に具体的に言うなら、
「実際に天皇が政治関与をしたかどうかなど、どうでもいい。憲法上でいくぶんかの天皇の政治関与が規定されていれば天皇主権なのだ。」
↑こういう発想をする政治家や政党とは、↓こういう発想もしかねない政党や政治家に他ならないのだ。
「実際に国民に政治参加の権利が認められているかなど、どうでもいい。憲法上でいくぶんかの国民の政治関与が規定されていれば国民主権なのだ。」
共産支那がさまにこういう発想だ。こういう実態を無視し、憲法など紙の上の記述のみに執着する発想。↓この有り様にあって社会主義を信じ続ける発想と全く同じだ。
紙(資本論)の上の記述:社会主義体制では人々は搾取から解放され幸せに暮らす。
実態:社会主義国では、人々は共産党幹部や官僚に搾取されまくり、時に飢餓まで生み出す。
時に実態に目を向けることが合っても、それは紙の上での記述にあてはまる側面、もしくはあてはまると歪曲できる側面に対してのみだ。
サヨク政治家やサヨクマスコミが政治家を批判する場合、実際の政策内容などを無視し、ナントカ発言とかにやたら執着する。言葉じりを捕らえ、悪意ある上げ足取りに終始する。森総理による「神の国」という言葉へのいいがかり騒動に見られるように。また、ひたすら憲法とかを崇め奉る。
そういった実態に思考停止して文面言説に執着する病理傾向。サヨクは、紙の上での記述(要はイデオロギーのこと)に忠誠を発揮し、実態(つまり実際の国民)をないがしろにする体質が染み付いているのだ。
サヨクは「紙(憲法とか資本論とか)の国」に暮らしている連中なのだ。